私は大甘である。2008/02/01 00:40

 明日は京都に行く予定。土曜日の午前から奈良でいつもの科研の研究会で、明日は京都泊である。土曜は一日研究会で、その日は京都に戻り、一泊して日曜に東京に戻る。

 発表はないので気が楽だが、体調はあまりいいほうではない。寒さと心労かな。身体の疲労というよりここんとこ精神的に疲れることが多い。精神的に自分ではタフだと思っていて何ともないのだが、体調は正直である。

 これから成績をつけなきゃいけない仕事がまっていて思いやられる。毎年同じ愚痴をこぼすのだが、あまり人の成績はつけたくない。

 今日、NHKのクローズアップ現代で、ヨーロッパの教育の現状を紹介していたが、イギリスの小学校がすごかった。成績がよい子にはケーキとかのご馳走を与え、悪い子には与えない、成績の差で食べものの差をつけるという。ここまでなりふり構わず競争原理を導入するとは、いやはやである。

 それにしても中国の競争原理だって馬鹿には出来ない。冷凍餃子の農薬中毒でも、背景には、厳しい競争社会がある。中国の生活格差は日本の比ではないから、生きていく為なら、あるいは金を稼ぐためなら、法違反も辞さない。

 かといって中国製品を排除するのは無理である。中国の食品なしに日本はやっていけない。日本の食料自給率は40%だという。金持ちは国産の安全な食を食べられるが、食費を切り詰めている人達は中国の食を食べなきゃ生活はできないのが現状である。排除でなくて、お互い知恵を出して安全な食を作るようにするしかないだろう。

 この厳しい社会に学生を送り出す身としては、二つの立場に身を引き裂かれる。どうせ厳しい社会にでるのだから、楽しい学生生活を送らせてやりたいというのと、競争社会を乗り切るためにもここで厳しい姿勢を取った方がいいという立場である。

 私は前者である。それは、教員が考えるより学生は社会の厳しさがわかっているからで、いや、たぶん教員よりもわかっていると思うからである。たぶん、ほとんどの教員は競争とは無縁なぬるま湯にいる。そんな教員から社会の厳しさなんか教えてもらいたくないだろう。

 だから時々私は大甘になるが、放任というわけではない。学生の自主性を引き出すような事が出来ればいいのだと思っている。目的を与えてはらはらしながら見守っていると、けっこう予想以上の成果を上げるものである。そういうときが教師として一番嬉しいときである。

       立春や学生たちの軽さかな

歌の音数律2008/02/03 16:28

 京都から帰ってきたら雪である。京都は朝方少し降った程度でたいしたことはなかったのだが、こっちは結構降っている。川越駅で奥さんに迎えに来てもらった。

 研究会のほうはE君に来てもらってリス族の歌の音数律の発表をしてもらった。歌の音数律の問題は、昨年のアジア民族文化学会のシンポジウム以来のテーマなのだが、なかなか難しい。

 アジアの歌(詩)のだいたいの傾向として、決まった音数律を持たない歌から決まった音数律を持つ歌へと変化する。これは、日本の歌も同じで、記紀歌謡から万葉へはそのような変化である。少数民族の歌もだいたいそうである。それから、偶数が少ない。奇数音が多い。一句の音数は3音から8音の範囲でほぼ納まる。だいたい言語を異にしていても以上の法則はあてはまる。

 何故難しいのかということだが、歌(詩)の音数律ということが、その言語に内在されたリズムの問題なのか、それとも、旋律との関係でそうなるのか、それとも、ただある一定の長さが大事なので、あとは、その長さ厳格に守るか守らないかの違いなのか、そして、言語の構造を異にするということが、音数律やあるいは長さにどういう影響を及ぼすものなのか、まだよくわからないのである。

 音数律の研究はかなり長い間行われているのに、何にもわかっていない。理由は、今まで一つの言語、つまり、日本の中だけで論じられてきたからである。われわれの研究や調査によって、ようやく、アジアの少数民族との比較が可能になった。それで、何だまだなんにもわかっていないじゃないか、ということが見えてきたのである。

 沖縄のKさんの発表は、歌や叙事や歌い方、あるいは唱え方の問題であった。北海道の大学に20年いたKさんはアイヌのユーカラや物語などの歌うような語り方に詳しく、それと沖縄のまた物語の歌うような語り方とを比較し、実際に録音で聞かせてくれたが、これが驚くくらいよく似ていた。

 万葉巻16に乞食者の詠があるが、沖縄でもアイヌでも、ああいう内容が歌うと言うよりは語られている。とすると、あの乞食者の詠は、歌うと言うより語られていた可能性もある。そういうように考えていくと、万葉の歌は必ずしも全部が歌であるなどとは言えなくなる。そういうことを考えさせる発表であった。

 夜は京都に戻り京料理を味わった。味わうというほどおおげさなのものでもないが、おいしかった。丁度節分でどこか鬼やらいの行事をやっているはずで、それを見に行こうとも思ったが、雪が降り始めたこともあり、早めに帰ったほうがよさそうだということで、E君と午前の新幹線で京都を後にした。

      雪ん中裸足で逃げろ鬼やらい

鬼やらい2008/02/04 23:15

 雪が残っているせいかかなり冷えている。今日は家で採点。T君は京都で吉田神社の鬼やらいに行ったようだ。実は、吉田神社の鬼やらいに行きたかったのだが、節分前夜は、奈良での研究会で夜遅くなっていて行けなかった。

 この鬼やらいには四つ目の法相師が登場する。この法相師は四つ目とはいえほとんど鬼である。法相師の由来を知らなければ鬼が鬼を追い払うというように見えるだろう。追儺の儀礼は中国でも盛んに行われているが、中国で共通しているのは、追われる鬼はこの世に形あるものとして登場しないということである。鬼のような仮面をつけるのは払う側の神々や将軍である。

 平安時代の宮中での追儺の儀礼で、貴族達が法相師を弓で射ったという記述があり、この記述が、払う側の法相師が払われる側になった例としてよく取りざたされるのだが、ただ記述としてはこれしかないので、疑問視する向きもある。

 ただ、日本の地方の鬼やらい、例えば国東の修正鬼会では、払われる鬼がこの世に登場し、その鬼が村人に触れることで村人の無病息災となる。これは、村人の厄を鬼につけるとも考えられるが、この鬼は村の家々を回って祝福もする。つまり来訪神の役割である。鬼が来訪神のように家々を回って祝福するのは、なまはげやトシドンがある。この鬼最後にはお寺に戻って、院主に鬼鎮めの餅をくわえさせられお経で鎮められる。やはり払われる鬼なのである。

 中国では悪い鬼は基本的に目に見えないものであり、仮面で登場はしない。払う側の神々は仮面として登場するが、こちらは法相師のように恐い形相である。ただ、払う側の仮面をしまうときには払いの儀礼を徹底する場合がある。払う現場では、払う側と払われる側との区別が曖昧になるという観念がそこにはある。そこは日本と同じである。

 払われる鬼は日本に入って視覚化される。悪い鬼は目に見えないものという中国的原則は日本にはなかったようだ。その結果、払われる鬼は地方で来訪神や土地神と習合していった。奥三河の「花祭り」の鬼も、修正会などの鬼役が地方に流れていって鬼の仮面劇を伝えたのではないかと言われている。

 いずれにしろ日本の鬼にはどこか愛嬌がある。最近のなまはげは子供に説教するばかりでなく女風呂を覗くそうだし、人間的である。どうも日本人は鬼について善と悪との徹底した区別は望まないようだ。見えない鬼は恐いがこの世に姿形をあらわしてくれれば、そんなに恐くはないのである。むしろ人間的になってしまう。日本に仮面祭祀が多いのはそういう日本人の感性によるからだろうと私などは思っている。

 鬼教師という言い方もある。悪い場合と良い場合両方使う言い方である。私は、悪い場合も良い場合も両方あてはまらない。たぶん前世で鎮められているのだと思う。
  
           立春や氷解くるまで首すくめ

情けねえ2008/02/06 01:04

 先週奈良へ行くときに、東京駅の本屋で何か一冊本を読もうと思って物色していたら、テレビでやっていた『鹿男あをによし』があったので買ってみた。行きの新幹線の中でほぼ読了。

 つまらないといいうわけではないが、面白いと言うほどではない。他愛ないと言ってしまえばそれまでだが、適当に脱力気味に書いているところが受けているのかも知れない。この手のSFっぽい荒唐無稽物語は、里見八犬伝以来の伝統とも言えるが、今までのよりは適度に力が抜けているし、たいしたCGや特撮を使わないですむということもあるのか、テレビドラマになりやすいのだろう。

 他の小説を買えば良かったと後悔したが、読書室に入れるまでもないか、と判断がついたのはまあ収穫であった。

 採点はほぼ済んだが、複数の教員でやっている教養講座の採点がまだである。これは担当の6名の教員の成績評価を集めて、全体の評価をださなくてはならないので時間がかかる。 

 北野武の映画『監督ばんざい』を借りてきて観る。これもまた脱力系のギャグ映画だ。「情けねえ~」というのは北野武のギャグの一つのスタンスだが、その「情けねえ~」路線で、映画監督である自分を茶化した映画だ。北野武は、自分は大した監督じゃないのに、人に大した監督と見られていることのフレッシャーが、けっこうあるのだなあということがよくわかる。そういう視線を何とかかわして、自由になりたいという欲求のようなものがこの映画にはよく現れている。「情けねえ~」ギャグのオンパレードで、あんまり笑えないし、ちょっと飽きるところもあるが、こういうのを撮らないと次にいけないのだなあと、妙に納得した。

 7日は入学試験で私は朝が早い。ということで、明日はホテルに泊まる予定。週末まで、入学試験の雑務でかなり忙しくなる。

     「情けねえ」ギャグが笑えず春浅し

入試が終わって…2008/02/07 22:58

 何とか入試が終わった。といっても、A日程が終わったということでB日程はまだ残っている。毎年、入試は神経を使う。特に、問題をわれわれが作るので、ミスがでないか最後の最後までひやひやである。むろん何度も打ち合わせをして検討をし校正をして万全をきしているが、それでも見逃しがある。

 特に国語問題は、数学や歴史のように正解と不正解の明確な基準があるわけではなく、文脈をどう読み込むか、あるいは問題文の指摘の範囲を何処まで広げるか、という解釈の幅で、解答が揺れ動く場合がとても多い。入試問題を作る労力は相当なものなのである。特に、人件費削減で教員が減っている最近はその苦労が馬鹿にならない。よく試験問題を外注してくれという声があるがよく理解出来る。

 これから合格者数を決める作業に入る。何処の大学・短大もそうだが、これが一番難しい。私の学科は定員を充分に満たすほどの受験者がきている。むろん、定員ぴったりに取る大学は何処もない。全員合格にしても定員に満たないところは別だが。経営上なるべく多めに取りたいが、制度的に定員の1.3倍を越える数は取れない(もし越えたら文科省からの罰則がある)。今のところ、おかげさまで、1.3倍をとっても充分な倍率が出る(不合格者が出るということ)数が来ているが、この1.3倍を越えないぎりぎりのところでどうやって入学者数を確保するか、これが大変なのである。

 そこで、何人の合格者を出せば何人が実際に入学するかを計算して合格者数を割り出し、その数のところで試験の点数の合格ラインを設定する。その割合を決めるのが毎年の歩留まり率とその年の入試状況の判断になる。例えば、合格者の3割しか入学しない場合もあれば5割を越える場合もある。みな併願で受けているから、他の大学に合格すればそっちへ行く可能性があるのである。従って、何処の大学と併願しているかそれも計算しながら、その割合を算出するのである。この計算はやはりベテランのプロがいて、そのプロに任せるしかない。毎年、実際に入る入学者数は、予測した数のプラスマイナス2、3名くらいであり、そうとうな精度で最終入学者数を割り出すのでたいしたものだといつも感心している。

 この時期毎年いつもこんなことを書いている気がする。他に話題のないときだからか。民俗学者のA氏から『遠野物語』を読む会を作るが参加しないか、という誘いがあった。何でも、昔話の深層心理などを書いているK氏グループのユング派心理学関係の人達と読む会をやるそうだ。参加することにした。というのも、毎年、演習で『遠野物語』を読んでいて、学生には毎年レポートを書かせているのだが、自分では何にも書いていないのだ。実は、どう読んでいいのか悩んでいるのである。参加すれば、自分なりの読み方を見つけざるを得ないだろう。私は、こういうふうに追い込まないと何も出来ないのだ。こうして、また忙しくなる。

          睦月空試験場から見られけり

2050年のことなんて…2008/02/08 23:59

 相変わらず入試関係の会議が続く。2050年の18歳人口まで見せられて、このまま何にも改革しないとやばいよ、と言われる。そこまで生きているか!とは思うが、次世代のことも考えないとな。

 柳田国男は、家族を先祖と子孫も含みこんだものとして家族だと言っている。だから、家には位牌が祀られているのであって、その位牌は、自分が死ねば子孫が自分を祀ってくれることを物語るというわけだ。

 柳田は日本人の一つの倫理観をこのような先祖や子孫を含んだ、家族の固有信仰のありように求めた。これを宗教と言ってしまうと適切ではないが、、柳田の考える家とは、先祖を祀る宗教集団と似ていなくはない。というようなことは以前ブログで書いた気がするが、要するに、子孫のことまで考えるという倫理観をどう作り上げるかはたぶん現代を生きる人間に突きつけられた難しいテーマだろう。

 子孫なんてとこまで思い及ぼす想像力をわれわれは失っている。そういうことは政治のの問題であって税金払ってんだから政治家が考えろ、というのが大方の意見だろう。資本主義社会は、個人の欲望の充足に価値を置くから、その充足は現世的なものになる。環境問題が深刻化するのは、現世的欲望の追求を抑制することが難しいからである。やっかいなことに、この充足にわれわれは自由という普遍的な価値をほとんど重ねている。だから、環境問題に熱心で消費主義を批判する人は、自由を抑圧する人に見えてしまう。環境問題の解決とはほとんど子孫の幸福の問題である。その子孫のことに思い及ばない以上は、環境問題の解決はないだろう。

 そういう意味で言えば、個人が子孫のことを考えるというのは、それこそ、現世を越えた超越的思想に踏み込まなくては無理ということになる。その実現にリアリティを持たせるとすれば、宗教かファシズムに近づいてしまう危うさもある。

 話が大きくなってしまったが、自分の職場の問題にかえせば、例えば、私は、この職場の将来にどの程度まで責任を持つべきなのかと考えてみる。私の定年はあと10年ほどだから、あと10年職場がもてばいいや、というのも一つの考え方であろう。というよりそれが普通かも知れない。

 次のあるいは次の次の世代にまで責任を持つというその根拠は、つきつめていけば、自分が生きているこの社会に対する愛情、その言い方が変なら、それを失うことに耐えられないという情とでも言うべきものだろう。

 簡単に言えば、定年までもてばいいや、というのは私の自分の職場に対する愛情のある度合いをあらわしている。これを環境問題にまで広げれば、別に自分が死ぬまで環境が持てばいいやという気持ちは、たぶんほとんどそうだろうが、自分が生きているこの世界への愛情のある度合いを示していることになる。

 愛情とは別な言い方をすれば執着である。愛情の度合いは執着の度合いと言ってもいい。子孫にまでわれわれの想像力が及ばないのは、この意味での執着が希薄であるからだ。この希薄さは、たぶんに、現代の社会の問題でもある。

 私は2050年まで自分の職場が生き残ることを願うが、一方で、定年まで持てばいいやというのもある。若い人のことを考えると職場の将来が確かに気になる。がそんなことどうでもいいやと思う気もある。私の愛情はどの程度なのか、正直自分でもよくわからない。確実に言えることは、私の給与が倍になれば愛情は確実に益すということだけだ。

        愛なんてどうでもいいや春浅し

手塩皿2008/02/10 00:36

 今日は朝から入試の会議。何とか明日の合格発表にまでこぎつけた。とりあえず一段落である。

 久しぶりに明るいうちに帰ることができた。川越ではうっすらと雪が積もり始めている。帰ってチビの散歩。近くの新河岸川の講演や河岸沿いの道を散歩する。さすがに雪の中で寒かったし、チビも足が短いから身体が泥での跳ね上がりで汚れる。

 やはりこういう散歩コースのあるのが私の住む川越のいいところだ。川の土手や田んぼや畑がまだたくさんあって、犬にとってはアスファルトの道ばかりの都心よりは快適だろう。人間だって同じだ。むろん長野の山荘の自然にはかなわないけど。

 通勤が苦痛で都心にワンルームを借りようと思っていたが、とりあえず、しばらく様子を見てからということになった。というのも、私のメタボの身体にとって、都心に住居を借りたら間違いなく運動不足になる。そしたら、血圧もコレステロールの更に値が上昇し、いつか倒れると、人に言われ自分もそう思う。

 このくらいの郊外で多少歩いて通勤し犬の散歩をする環境であったほうが、身体にはいいということだ。

 夜9時から「世界不思議発見」を見る。雲南の少数民族の特集である。この番組は時々雲南の少数民族の特集をやる。だいぶ前だが一度私の所に「世界不思議発見」から電話がかかってきたことがある。雲南の少数民族への問い合わせで、その時は、モソ人のことを番組で扱うということだったので、E君を紹介した。番組ではE君の紹介でモソ人を取材し、放送時にはE君は番組の収録に招待されたそうで、私も誘われたが忙しくていけなかった。テレビ局や新聞社から時々少数民族についての問い合わせがあるが、私がアジア民族文化学会の事務局であり(今代表やってます)、ホームページにもいろいろと紹介しているので、私のところに連絡がはいるのだ。

 今日のは、ハニ族とぺー族の文化の紹介で、ペー族は私の専門だし、大理も何度も行っているところだから、面白く見た。テーマとしては、著名な雲南の少数民族出身の舞踊家の故郷を訪ねる、という設定である。

 確かこの舞踊家の作った映画を昔見たことがある気がする。少数民族の踊りを現代風にアレンジした舞踏団を作っているらしく、3月に日本で公演するということだ。少数民族の踊りをエキゾチックな演出でアレンジした舞踊は、雲南で飽きるほど見ている。そんなに興味はないが、ただ、こういう舞踊は少数民族の文化が、世界に受けいれられて行こうとする一つの方向であることは確かだ。原初の生命観やエネルギーをそこに見ようとしているということだが、今の段階では、観光客に見せる見せ物の域を出ていない。どうせならさらに徹底して、日本の暗黒舞踏のようなところまでいったら、たいしたものだと思うが。

 6時から「人生の楽園」という番組があって、私の年代の夫婦が田舎暮らしをしながら第二の人生を頑張っている人を紹介するという番組で、時々見て、参考にする。私の第二の人生はこういうのではないなと確認するだけだが。たまたま手作りで塩を作っている天草の夫婦が出てきたが、そこで手塩にかける、という言い方が出てきた。手塩って何だと奥さんに聞いたら、手塩皿というのがあると言う。

 手塩皿とは、食事の時に塩を盛る小さな皿で、調味料ではなく、食事を清めるために塩を盛る皿のことだそうである。それは知らなかった。ところで手塩にかけて育てる、という意味は、江戸時代の歌舞伎のセリフから来ているらしいと辞書にあった。

 今日は手塩皿を知っただけで満足である。

    凍返る今日の煮物の塩かげん

襖貼り2008/02/12 00:10

この連休は、文章表現のテキスト作りと、家の襖貼りである。文章表現はわが学科の必修であるが、共通のテキストがない。教養講座の共通テキストをE君が作ってくれたので、それをわが学科用に何とかアレンジしようと昨日から取り組んだ。

 市販のテキストもないではないが、できるなら自分たちで作りたい。が、自分たちで作ると問題になるのが、著作権である。誰かの文章を引いて問題を作れば、必ずそこに著作権が発生するからいちいち断らなくてはならない。さすがに、それは面倒で出来ない。だから、文章の書き方や問題も自分で考えて作る他はない。

 もともと私はS予備校で「考える小論文」という参考書を出しているので、こういうテキスト作りは初めてではない。ただ、今までさすがに作る時間がないのでほうっておいたのだが、ここにきて作らざるを得なくなってきた。

 実は、私が書いた文章が東大の国語問題に使われ、おかげであちこちの参考書から著作権の使用料とやらが入ってくる。もっとも数千円程度の額ではあるが。さすがに東大入試の問題に使われると多くの参考書に載ることがよくわかった。東大を受ける優秀な学生が一応は私の文章を嫌でも読まざるを得ないわけだから、悪い気はしない。「考える小論文」もまあまあ売れたようだ。といってもたいして印税は入らなかったが。この本評判よくて、名著だと言ってくれる人が多い。評論や研究の本は誰もそう言ってくれないので、心中複雑である。

 勤め先ではさすがに「文章表現」の授業は持てないが、こういう基礎的な授業に今大学では力を入れているのである。 

 今日は天気がいいので襖貼りをした。まず古い襖の取っ手をはずし、枠の桟にマスキングテープを貼る。ホームセンターで買ってきた新しい襖紙を取り出し、広げて裏側に水で塗らす。糊がついているので糊が溶け出すのである。それを襖に貼って、はみ出た紙をカッターで切る、という作業なのだが、この余ったところをカッターで切る作業が難しい。

 まず、しわが寄らないように綺麗に貼るのがなかなか難しい。水で塗らしているのでどうしてもしわが寄るのである。それから、カッターで端のラインに合わせて真っ直ぐに切るのがなかなか上手くいかないのだ。本来のやり方は、襖の木の外枠を外して、紙を貼ってから枠を取り付けるのだが、とてもそれをやっている時間と技術がないので、枠を外さずに貼った襖紙をカッターで切るという簡便なやり方にしたのだが、どうしても真っ直ぐに切れないのである。

 理由は、よく乾いていないのですっときれないのと、貼り方にムラがあるせいと、私が不器用なせいである。奥さんがみかねてあんたほんとに不器用ね!と言いながら私からカッターを取り上げて自分で切り始めた。ムッとしたが、確かに私よりはうまい。

 悪戦苦闘して半日で何とか二枚の襖を貼った。部屋が少しは明るくなった。まだ3枚残っていて、これはまた後日である。

          春寒き午後の日差しや襖貼り

うらやましい短大2008/02/13 23:43

 わが学科の一般試験の倍率が出た。昨年は1.8倍だったが、今年は何と2.6倍である。実は、一般入試の受験者は減っているのだが、推薦で昨年よりも多くとっているために、一般入試の倍率が高くなった。つまり、わが学科に、受験者の多くは一般入試ではなく、推薦で受験する傾向になってきたということである。

 それでも一般入試に受験するのは、他の大学や短大との併願ということである。第一志望であってくれればよいが、4大との併願だと滑り止めになっている可能性はある。

 これだけ倍率があがると来年の受験がどうなるか逆に不安になる。倍率が高いと敬遠されるのか、それとも、受けてみたいと思う受験者が増えるのか。増えることはないだろうなあとは思うが。全国のほとんどの短大が全入か定員割れの今、贅沢な悩みといったところだが、それだけちょっとでも手を抜いたらすぐに定員割れの可能性があるということでもある。責任者として頭が痛い。

 推薦で合格した入学予定者に実施した学力テストの結果が送られてきた。予想よりはまあまあの出来だが、中にはこんなに出来ない奴もいるのか、と不安にさせられる学生もいる。推薦は学力考査を行わないので何割かはわれわれの予想を下回る学力の学生が入ってくる。そのために、入学前に学力テストを行った、ということだ。

 英語と現代文のワークブックを、平均点をかなり下回る入学予定者にさっそく送る準備をした。入学前に毎日ワークブックをやるようにと送るのである。テスト形式なので、得点の記録をつけてもらってその記録を提出してもらうようにしている。

 平均点を上回る入学予定者には、読書案内を送り読書レポートを書くように指示する。こういうことを2月から3月までやらなくてはならない。休んでいる暇はないのである。

 「日本文学」の2月号に、長野県立短大の話が載っていて、読んでいて羨ましかった。教員一人に10人の学生数で、日本文学は古代から近代まであり、しかも中国文学まであってみんな必修になっているという。しかも卒論50枚書くというのだ。学生の自治組織があって、行事は学生が中心になってやり、ゼミも活発だという。2年で卒業させるのがもったいないと書いてあったが、それはそうだ。絶対赤字だと思うけどでも羨ましい。

 前に学会で行ったことがあり、教員にも知りあいがいる。さすが公立短大である。うちも真似したいが、難しいだろうなあ。そういえば、山梨県の大月短大のことが朝日新聞に出ていたが、こっちは国公立大への編入に目的を絞って教育し成功しているという。一方、石川県の短大では高校なみの担任制で、教員は毎朝登校して学生におはようと言うらしい。これも成功例だが、この例は真似したくない。

 短大は個性を発揮しないと生き残れない、ということだ。うちにも個性的な教員はたくさんいるが、ほとんどが短大の個性にはなって欲しくない個性である。教育機関としての個性を出すのはなかなか難しい。

          教師らは佇む薄氷を踏んで

「みなさんさようなら」を観る2008/02/15 01:02

 今日も出校。いろいろと忙しい。文章表現のテキストを作るためには、まず相見積もりを取らなくてはならない。複数の業者に来てもらって入札させて安いところに頼む。安い額だが、学校の方針で必ず相見積もりをとらせるのである。「千字エッセイ」の作品集も相見積もりをとったが、毎年印刷屋が違う。業者も数万円単位の仕事をとるのにいちいち入札しなきゃならなんのだから、大変だと思う。今日はその相見積もりのために業者に来てもらった。

 バレンタインデーのチョコはとりあえず2個いただきました。実は、この時期、教員は職場にいることはないので、私も今まではチョコとは無縁だったのだが、学科長になったらバレンタインデーの日でも仕事をしなきゃならない。ということで仕事をしているものだから、気を遣ってもらって義理チョコを頂いたのですが、ありがたいものです。

 夜、DVDで映画「みなさん、さようなら」を観る。監督はドゥニ・アラカン、アカデミー外国語映画賞を取った作品だ。前々から観ようと思っていた映画だった。

 カナダのフランス語圏の映画で、さすがにフランス人のエスプリを巧みに効かせた会話が洒落ていてなかなか面白い。元左翼の大学教授が末期癌になり、成功した息子に世話をされ、元愛人や友人が集まってわいわい騒いで、最後はヘロインで尊厳死するという内容。深刻な題材だが、ほとんど皮肉に満ちた会話で笑わせたりほろりとさせたりでなかなか良くできている。

 現代は「蛮族の侵入」で、実は、映画の中で、9.11のテロの光景が映し出され、これは「蛮族の侵入」だと解説される。この監督は、アメリカ帝国はローマ帝国のようにやがて蛮族の侵入をうけて滅ぶ運命にあるというのが信念らしく、この題名をつけたという。この映画の内容とは直接関係ない。

 主人公は1950年生まれで元左翼の大学教授。実存主義、マルクス主義にかぶれた知識人。何だ私と同じだ。つまり、だいたい私たちの世代と共通した精神構造ということだ。ただ、この主人公はかなりの女たらしで妻とは別居している。ここはまったく私と違う。日本の団塊世代の思想は、まだ家や親といったものからの解放意識が強かったが、西欧は自我やキリスト教的な倫理観からの解放の欲求が強く、それが性の解放に結びついた。そういう解放を味わったなれの果てのベビーブーマーの世代が、この映画にはたくさん登場している。それが何とも面白い。

 この映画の主人公は、最後まで死は恐いと言い続け、死ぬ意味を何とか探さなくてはとあせる。最後は家族と友人に囲まれて尊厳死というわけだが、ある意味で脳天気で幸せな終わり方である。この主人公はひっそりと死ぬなんて選択は絶対に選べないだろう。これは、たぶん脳天気に生きてきた左翼知識人の弱さである。こういう弱さをわれわれは何処かで共有している気がする。

 われわれが意気込んで語ってきた思想は終始死に向き合うリアリティとは無縁なものであった。生活者として齢を重ねいつのまにか老いていくような、そういう抗いがたい生の時間を内在させてもいなかった。結局、みんなで騒ぎながら死を感じないようにして死を受けいれるしかないのだ。まあ、そんなものかなと思う。私の周りにも末期癌の友人がいる。彼も元左翼だが、この映画の主人公よりはしっかりとしている。われわれに出来ることは、周りで少しは賑やかにしているということぐらいかも知れない。

        脳天気に生きてきたなあ春二月