レポート集2008/01/25 23:54


 今日は山小屋にて仕事。まず、自己開発トレーニングの課題レポートがやっと集まって「自己分析レポート集」の原稿作りである。一人4000字以上のレポートで、データで提出しろと言ってある。今はとても便利で、ウェブ上のサイトでレポートの受け取りが出来る。むろん課題もウェブ上で出す。提出者や提出時の記録も出る。山小屋のパソコンでもレポートの受け取りが出来るのである。遅れていたのが一人いたが、何とか全員提出した。

 授業でライフストーリーを書かせ、テキストのいろんな心理テストをやって、それらを参考に自己を分析しなさいという課題だが、あらかじめ、レポート集にして他の人に読んでもらうのでそのつもりで書くようにと言ってある。ただし、名前は載せない。だから、自分であることがばれるのが嫌ならそのつもりで書けばいい。三人称で書いてもかまわない。

 なかなか力作が揃った。自伝的に書くものもいれば、心理学のレポートらしくきちんと分析をしているのもいる。初めての試みだったが先ずは成功と言ったところだ。月曜日に印刷をしてレポート集にまとめてそれぞれに手渡す予定である。

 この授業の大きな目的は、心の中を記述する経験をすることである。ただ告白的に書くのではなく、分析という作業の対象として書くという体験である。自分の性格やライフストーリーを4000字で書くことはおそらくは初めての体験であろう。

 しかもそれを他者に読んでもらうものとして書くのである。これが大事なことなのだ。最初はたぶん当たり障りのないようにごまかしながら書くだろう。しかし、書くという行為は一種の憑依である。取り憑かれたように自分を書き始める。人が読もうが読むまいがどうでもよくなる。そうして書いたものを読み返すと、一つのえらい作品を書いてしまったことに気づく。

 そこに描かれた自分は自分でないような気がするかも知れない。他者としての自分に出会う瞬間である。心理学とは、心の中をただ分析するだけの学問ではない。それを語るあるいは記述する学問である。心理学における心という対象は、誰でも自分の心である。なぜなら、他者の心など見えるはずもなくその意味では分析も計測も出来ないからだ。

 とすれば自分の心を手がかりに分析し推測し論理化しなければならない。自己の心を分析して記述するのは、だから心理学の基礎なのである。他者としての自己と出会わなければ、他者とは出会えないし、他者の心など語れないということだ。自分のことなんてどんなに記述したって分かるはずがない。ただ、自分を記述することはとても大事なことだというそういう基本的なことが分かればいいのだと思う。分厚いレポート集が出来たたが、その基本的なことがわかったのかどうか。

 仕事の合間に雪道を散歩。枯れ枝に宿り木が小さな黄色い花をつけている。奥さんに言われて気づいたが、鳥の巣かと思ったら宿り木であった。チビは鹿の足跡のにおいをかいて興奮している。ナナと同じだ。手袋をくわえるのが好きで、手袋を渡すとそれをくわえて歩き出す。その姿が面白い。

         寒月や命あるもの鎮まりぬ

フィンランドの薪置き2008/01/27 00:26


 今日は午前中薪割である。だいぶ薪が少なくなってきたので、まだ割らずに積んであった薪を薪割り機で割る作業をした。割った薪は日当たりの良い場所に積んでおくが、なかなか場所がないのが困る。薪の調達は、知り合いで樹を伐採した時などに分けてくれるよう頼んだり、別荘地で倒木などがあると管理人に頼んでもらったりとか、普段から気を配っている。おかげで薪を買うということは今のところない。だが、最近灯油が値上がりしたためか、薪ストーブの家が増え、薪の調達が難しくなってきた。競争相手が多くなったのである。

 部屋に薪を置く入れ物を作った。フィンランドに行った奥さんが、向こうのデザイナー集団が使っていた木製の薪置きが気に入って、ああいうのを作れと言うのだが、わかっていてもなかなか作れるものではない。ところが、奥さんが折りたたみの机の脚を使えばと言う。机の脚は使えそうになかったが、椅子なら使えそうだ。

 そこで、折りたたみの木製の椅子の座面を取り外し、それを地面すれすれの所に取り付ける。そうすると、ちょうど地べたに座るような椅子ができあがり、薪を積んでおくのにちょうどよくなった。形もフィンランドのものとよく似ている。けっこう満足している。

 木曜(24日)に、リテラシーポイントの高得点者への表彰式を行った。該当者は5名。もっといるかと思ったが、少なかった。ポイントのハードルが高すぎたのかも知れない。約束通り、ハート型の音の出るペーパーウェイトを副賞としてあげた。

 木曜に短大の将来構想についての打診があった。今私どもの短大はうまくいっているが、盤石ではない。少子化の現状を考えればこのまま安泰とはいかない。かといって、どういう手が打てるのか、それを考えるのはとても難しい。というのは、全国の短大で、実にいろんな試みがなされ、様々な改革が行われた。結局、ほとんどが成功しなかった。

 首都圏の有名短大が、しかもあまり改組もせずにいた短大が生き残っただけだった。私はそれがどういうことかを説明した。短大や四大もそうだが、競争力のないところは。学力を問わずレベルの低い層にターゲットをしぼる。どうするかというと、学生が好きそうな科目をたくさんとりそろえ、興味があったり好きな科目を自由に選べるというのを売りにするのである。名前を総合学科とか創造学科いうような名前にする。こういう試みはだいたい失敗した。

 失敗の原因は、レベルの低い学生は自分が何を学びたいか分からないはずだから、入学させてから考えさせようとしたことが裏目に出たのである。バブルの時代はいざ知らず、この格差社会に、何を学んでも自由ですよ、なんて大学に入るのはあまりいない。明確な教育目標があって、ここで勉強すれば、こういう将来が手に入りますよ、と言ってくれる所に志望するのである。

 有名短大は、旧来の学科構成のままだったが、それは、ある意味では、そこで何を学ぶかが伝統的に明確であって分かり易いのである。むろん、中身の改革はやってはいるだろうが、受験生の程度におもねって改革することはなかった。それが結果的に功を奏しているのである。

 結局、目先の新しさを求めて名前を変えていろいろやってもだめだということだ。そんなに甘くはない。学部や学科の名前はシンプルで分かり易く、学ぶことがはっきりしていて、その上で、面白そうでなければ学生は集まらない。

 我が文科では、徹底してリテラシー教育に目標を絞り込んだ。心理学コースを作ったが、あくまでもリテラシー教育の一環として心理学を学ぶとうたっている。この教育目標を明確にするために、マニフェストを作り、読書活動や千字エッセイなど書くことを日常的に奨励している。何でもいろんな勉強できるというような曖昧な目標ではなく、分かり易い明確な獲得目標をメッセージとして出せなければ、今はうまくいかないのである。   

 そういうことがわからない連中は目先を変える改革に関心を示す。それではだめだと話しながら、こんなことを一生懸命話していると、私は研究どころではなくなるなとふと反省した。自分の勉強をしなくては。この歳ではそんなに余裕はないのである。ということで、私は将来構想の改革に少し距離を置くことにした。出来るかどうかはわからないが。若い人たちが何とかやってくれるだろうと思っている。

         山凍る森羅万象声も無く

夕顔2008/01/28 00:34


 午前中に山小屋を出発。午後早くに川越に戻る。途中下仁田の岡田茶屋に寄って、名物の「山猿うどん」を食べる。ここによるのは久しぶりである。下仁田だけにこんにゃくが名物であるが、不思議な茶屋で時々変なものが置いてある。

 太った猫の彫り物の写真が絵はがきになっていてとても可愛かった。その写真を使ったカレンダーが壁に貼ってあって、とても面白いので奥さんが店の人に聞いたらカレンダーは別に売り物ではないという。でも、差し上げますといって一部いただいた。聞いてみるものである。その彫り物は何でもこの茶屋の息子さんが彫ったものであるらしい。

 家に帰って、卒業論文を数本読み始める。査読であるが、疲れてきたのか二本読んだところでダウン。源氏物語の、夕顔の遊女性についての論が面白かった。その存在の非日常性に源氏は惹かれていったとする論だが、読みながら、夕顔の遊女的とも言える非日常性はどうして生まれたのか、それが気になった。そんなに変わった生い立ちでもなさそうだし、それが女性性の伝統としてあるということなのか、よくわからないが、そういうわからなさがわからないまま投げ出されるのも源氏物語の魅力なのだろう。

 夕顔の異界性は登場する女性達の中では突然変異の如くである。つまり、いかにも異界にさまよいこんで出会った山姥というような存在ではなく、普通の女性なのであるが、異界的と言われれば異界的な女性である。ことさら嫉妬深いわけでもない。遊女というタイプでもない。それなのに何故夕顔が、と疑問は確かに出てくる。

 遊女性や異界性というのは、生い立ちや性格や内面によって説明できるものではないということだろう。それこそ、憑依の問題なのかも知れない。

 フィンランドの薪置きの写真があったので載せておきます。なかなかシンプルで、これなら簡単に作れそうです。私は、折りたたみの椅子で作りましたが。

    卒論を読みくたびれて日脚伸ぶ

不思議な猫2008/01/29 23:52


 今は学期末試験の最中である。2年生は卒業がかかっている。この時期になるといろいろなことが起こる。トラブル処理係である私は毎日が大変である。

 授業は試験でないので少しは楽になったが、心労は逆に大きくなった。やれやれである。岩波の『文学』が届く。「八世紀の文学」という特集で、私の参加した座談会と論文が掲載されている。座談会は私の発言が少ない。F氏の勢いに圧倒されてほとんど何も言えなかった座談会である。

 私の論は「心情語論」であるが、昨年一年かけていろいろと考えていたことをまとめた論で、自分で言うのもなんだが、面白い論になったのではと思う。万葉短歌の物象と心象の表現構造を、八世紀の中央と地方の構造に対応すると捉えている。心情語を貨幣とみなすことで、何故、万葉短歌が、中央から地方へと広がり、地方の景が中央にもたらされたのか、という問題がうまく説明できる。

 心情語を貨幣として携えた官人たちは、地方に行って自然と出会い、心情語を心の財布から取り出して、詩的な景に交換したのである。これは譬喩としての説明だが、この譬喩はなかなか上手くいったと思っている。

 下仁田のおかた茶屋で買ってきた不思議な猫の彫刻の絵はがきと、いただいたカレンダーは、三輪途道(みわみちよ)というアーチストの作品である。どうもおかた茶屋の娘さんらしい。なかなか不思議な味わいのある猫でうちの奥さんはすっかり気にいっている。

     神さびて臘梅の下眠り猫