フィンランドの薪置き2008/01/27 00:26


 今日は午前中薪割である。だいぶ薪が少なくなってきたので、まだ割らずに積んであった薪を薪割り機で割る作業をした。割った薪は日当たりの良い場所に積んでおくが、なかなか場所がないのが困る。薪の調達は、知り合いで樹を伐採した時などに分けてくれるよう頼んだり、別荘地で倒木などがあると管理人に頼んでもらったりとか、普段から気を配っている。おかげで薪を買うということは今のところない。だが、最近灯油が値上がりしたためか、薪ストーブの家が増え、薪の調達が難しくなってきた。競争相手が多くなったのである。

 部屋に薪を置く入れ物を作った。フィンランドに行った奥さんが、向こうのデザイナー集団が使っていた木製の薪置きが気に入って、ああいうのを作れと言うのだが、わかっていてもなかなか作れるものではない。ところが、奥さんが折りたたみの机の脚を使えばと言う。机の脚は使えそうになかったが、椅子なら使えそうだ。

 そこで、折りたたみの木製の椅子の座面を取り外し、それを地面すれすれの所に取り付ける。そうすると、ちょうど地べたに座るような椅子ができあがり、薪を積んでおくのにちょうどよくなった。形もフィンランドのものとよく似ている。けっこう満足している。

 木曜(24日)に、リテラシーポイントの高得点者への表彰式を行った。該当者は5名。もっといるかと思ったが、少なかった。ポイントのハードルが高すぎたのかも知れない。約束通り、ハート型の音の出るペーパーウェイトを副賞としてあげた。

 木曜に短大の将来構想についての打診があった。今私どもの短大はうまくいっているが、盤石ではない。少子化の現状を考えればこのまま安泰とはいかない。かといって、どういう手が打てるのか、それを考えるのはとても難しい。というのは、全国の短大で、実にいろんな試みがなされ、様々な改革が行われた。結局、ほとんどが成功しなかった。

 首都圏の有名短大が、しかもあまり改組もせずにいた短大が生き残っただけだった。私はそれがどういうことかを説明した。短大や四大もそうだが、競争力のないところは。学力を問わずレベルの低い層にターゲットをしぼる。どうするかというと、学生が好きそうな科目をたくさんとりそろえ、興味があったり好きな科目を自由に選べるというのを売りにするのである。名前を総合学科とか創造学科いうような名前にする。こういう試みはだいたい失敗した。

 失敗の原因は、レベルの低い学生は自分が何を学びたいか分からないはずだから、入学させてから考えさせようとしたことが裏目に出たのである。バブルの時代はいざ知らず、この格差社会に、何を学んでも自由ですよ、なんて大学に入るのはあまりいない。明確な教育目標があって、ここで勉強すれば、こういう将来が手に入りますよ、と言ってくれる所に志望するのである。

 有名短大は、旧来の学科構成のままだったが、それは、ある意味では、そこで何を学ぶかが伝統的に明確であって分かり易いのである。むろん、中身の改革はやってはいるだろうが、受験生の程度におもねって改革することはなかった。それが結果的に功を奏しているのである。

 結局、目先の新しさを求めて名前を変えていろいろやってもだめだということだ。そんなに甘くはない。学部や学科の名前はシンプルで分かり易く、学ぶことがはっきりしていて、その上で、面白そうでなければ学生は集まらない。

 我が文科では、徹底してリテラシー教育に目標を絞り込んだ。心理学コースを作ったが、あくまでもリテラシー教育の一環として心理学を学ぶとうたっている。この教育目標を明確にするために、マニフェストを作り、読書活動や千字エッセイなど書くことを日常的に奨励している。何でもいろんな勉強できるというような曖昧な目標ではなく、分かり易い明確な獲得目標をメッセージとして出せなければ、今はうまくいかないのである。   

 そういうことがわからない連中は目先を変える改革に関心を示す。それではだめだと話しながら、こんなことを一生懸命話していると、私は研究どころではなくなるなとふと反省した。自分の勉強をしなくては。この歳ではそんなに余裕はないのである。ということで、私は将来構想の改革に少し距離を置くことにした。出来るかどうかはわからないが。若い人たちが何とかやってくれるだろうと思っている。

         山凍る森羅万象声も無く