センター試験終わる2008/01/21 00:51

 センター試験が終わった。やっと2日間の拘束から解放された。私は本部詰めだったので、試験業務の最初から最後まで立ち会わざるを得ず、とにかく一日12時間、2日間試験本部でじっとしていた。試験監督をするわけでもなく、ただじっと坐っているのが私の仕事である。最後に答案を送り出してやっと仕事が終わる。

 それにしても日本で54万人が一斉にセンター試験和受けている訳だが、それをいかに公平に行うか、その神経の配り方は並ではない。試験時間が5秒短かったりしたら、その試験はやり直しである。5秒ぐらいいいじゃない、と思うがそうはいかないのだ。よくあるのが携帯を切れというのに、鞄の中で携帯が鳴ってってしまうケース。30秒鳴ったために、その会場の受験生は再試験になったと報じられていた。

 徳島大では、ある試験監督が試験前に受験番号と名前を書くようにと指示を出さなかったために、その教室の希望者は再試験になったと報じられた。そんなの受験生が書くのは当たり前だろう。要するに、受ける側は試験の結果が悪ければ試験のやり方に問題があるのだと思いたい。5秒短かったために一題損したと言うように。あるいは、携帯の音で出来なかったとか、きちんと指示してくれないから忘れたとか。それにしてもその程度で全国のニュースになってしまうというのは大げさである。やっているほうはたまったもんじゃないだろう。

 さすがに何もやることがないので待機中に、福岡伸一『生物と無生物の間』を読む。ベストセラーの理系の本だがさすがに面白かった。この人分子生物学者にしては文章がうまい。

 分子は何故あんなに小さく人間は何故こんなに大きいのか、という問いかけが一番面白い。答えは、大きいというのは、流動化するエネルギーが平衡するから、つまり、一つの形状を保つにはある程度の大きさが必要で、小さくなればなるほど、生命とは流動的になるということなのだ。言わば、人間という固体は、流動化する分子の形状記憶された集合体であるに過ぎないというわけだ。

 生命という謎はわかったわけではないが、少なくとも、物質というレベルでの生命というものの姿は理解できた。それはほとんど「無」の世界である。この世にあるなんて一瞬に過ぎない、という仏教的な教えそのものである。誰が作ったかしらないが、何でこんなもの作ったのか、と問いたくなるのは確かだ。

 金曜日夜の間村俊一の句集出版記念パーティは凄かった。会場は人であふれていた。さすが当代一の売れっ子の装幀家である。『鶴の鬱』という句集もまた好かった。塚本邦雄に影響を受けた句集だと自他認めている。私の俳句など恥ずかしいくらいだ。ただ、高橋睦郎にもっと実感で俳句を作れと言われていたのは面白かった。

         小豆粥啜るこの世も無ならむや

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