もう疲れました2008/01/11 00:02

 授業が始まり3日ほど過ぎたがもう疲れた。昨日は、卒業生との新年会。銀座の外れで京橋近くの居酒屋に行く。なかなかおいしい店である。もう7年前の卒業生たちと助手さんとのグループなのだが、毎年もしくは一年おきかで飲み会を開いている。

 助手さんだったYさんは劇団にはいって演劇をしている。本人はなかなか芽が出ないとややあせりを感じているが、そこそこ劇団で仕事も入るので何とか続けているのだという。まあ、好きなことを今やっていて、何とか続けられているのだから、恵まれてるよ、と励ました。このグルーブでの私の役割は、みんなの仕事などの愚痴の聞き役なのだが、みんなは、自分たちこそ仕事で疲れ果てている私の愚痴の聞き役だと思っているだろう。まあお互い様というところだ。

 新年会が終わって神保町のホテルに。次の日、今日は1限目から授業である。こういう時はホテルに泊まる。1限目は、複数の教員のリレー形式で「家族」というテーマでの講義である。私の担当は柳田国男の家族論である。

  柳田国男は、家というのは先祖や子孫までも含む縦の繋がりなのだと強調する。つまり先祖という神を共通して敬う一種の信仰集団のようなイメージを持っている。信仰というと大げさだが、自分は先祖になることで死後の安定を得る、そのためには、先祖を敬わなければならないし、同時に子孫が死んだ自分を祖先として敬わなければならない。そういう縦の時間軸を持つのが家なのだというのである。

 こういう縦の時間軸を抱える家は、ある程度の規模の農家である。が、都市社会の成立によって、この縦軸の家が崩壊し始める。「時代ト農村」の中で柳田はそれを家の自殺、もしくは家の他殺と呼んでいる。

 このような縦軸の家意識を持たない私は、理念としてしか理解できないが、この家の感覚はより普遍的に捉えかえすことは可能だろうと思っている。つまり、何処かで神のような説明できない何かを共有する関係、しかもそれは宗教教団とはまったく違った仕方、例えば、普段は意識しないが、生活儀礼のような生活の様式としてそれを受けついでいるようなあり方であると捉えれば、そうかなという気がする。

 私は家族とは死を共有する関係だと思っている。死は人間にとって宿命であり、逃れられない。この逃れられないあり方を共同で受けいれようとする関係こそ家族ではないかということだ。障害児が生まれたとき、多くの母親はその子を一生育てようとする。そこに何の道徳も理念も介在していないはずだ。自分の力では生きていけない存在をなんの理屈もなしに引き受けることは、ある意味では死という宿命を抱え込むこととおなじ事である。そこの引き受けた方に家族という関係の本質があるのではないか。

 柳田は、たぶん私の考えるような家族の本質を理解していたと思う。だが、柳田はそのような家族のあり方に日本人の理想もしくはアイデンティティを重ねようとした。「先祖の話」では、外地の戦争で死んでいく若者の魂の帰るべき場所こそ家であって、先祖になるのだと柳田は言う。そこには、家のあり方から、日本人の霊魂観や日本人の信仰という問題まで説明しようとする意欲がある。

 このような柳田の家族論は多くの批判にさらされている。例えばそういう理想的な家族から排除される人間が居たはずであり、そういう存在について柳田は黙っている。初期の柳田は、例えば「遠野物語」では、村の家から山には入ってしまった(神隠しにあった)女性達の不可思議の物語を書いている。その女性とは、家や村から疎外された女達だった。家から排除され異界的な存在となるか、あるいは漂泊する女性達、例えば巫女などに関心を抱いていた柳田は、先祖を信仰する縦軸の家を論じる柳田とは違う、というような批判である。

 今日の講義は以上のようなことだった。あと2コマの授業と、教授会を二つ、会議やら雑務やらをこなして、私を先祖として祀ることのない小さな家に何とか帰ってきた。

獅子舞も祝福に来ぬ家に住む