チビも元旦2008/01/01 22:50


 どうも胃腸の調子がいまいちで、食事制限をしているものだから、年が明けたといっても、この調子がいつまで続くことや、それが 気にかかる。除夜の鐘は、この別荘地の下の柏原という地区の寺にいつも搗きに行く。村の人たちといつも新年を祝うというのが恒例である。鐘を撞いてお札をもらって帰ってくる。

 小さな鐘楼の前にたき火があり、村の人が紅白が終わると鐘を撞きに出てくる。私の別荘地も毎年何人かの人たちがこの鐘を撞きに来るのだが、わたしたちも毎年参加している。こぢんまりとしていてなかなかいい年越しである。

 今日の正月は不思議に誰も来ないので、一日何もせずに過ごしたが、この何もしないで過ごすということがけっこうつらい。一年の中で何もしないで過ごすのは、体調がわるくて何も出来ないときか、何かやろうとするのだが、何も出来ずに終わるような日々で、私にとって好い日ではない。今日はどちらかというとリハビリの日ということになろうか。さすがに今日は本を読む気がしなかった。

 夜、DVD「敬愛なるベートーヴェン」を観る。晩年のベートーヴェンと若い女性写譜師との交流の物語だが、この写譜師にベートーヴェンは心を許し、第九の初演の時は彼女に助けられるという話である。この写譜師は架空の人物である。音楽映画としてはまあまあだった。もっと感動的なストーリーにできるだろうというような題材ではあったが、いわばベートーヴェンの伝記映画であろうとしたためか、写譜師の側の描き方が弱くなってしまったのが残念。アンナという若い写譜師の物語をもう少し知りたかったという欲求不満が残った。が、こういう、音楽がテーマは観ていて感動できるからいい。第九初演の合唱部のところなどなかなか見応えがあった。

 チビは相変わらずだ。テレビはほとんどお笑いばかりである。環境問題の特集をBSでやっていたが、それを少し真面目に観た。今地球は大変だということが強調される。環境より、自分の生活や命を守ることに必死な人たちの多いこの世界に、その大変さをどう実感させていくのか、むしろそのほうが大変だと、テレビを観ながら考えた。

         北極が溶けゆく世紀年明けぬ

駅伝を見る2008/01/03 23:31

 2日・3日と天気も良く、穏やかな正月である。2日はこの別荘地の新年会。この別荘地は、定住者が多く、その人たちで自治会を作っている。また別荘所有者によるオーナー会というのがあって、まとまりのある別荘地である。普通、こういう別荘地では、コミュニティは作らないものなのだが(そういうのを嫌って別荘を建てる人が多いから)、ここはその意味では少し変わった別荘地である。

 定住者にもいろんな人がいるが、脱サラ組の人もいるし退職をして移り住んだ人もいる。共通しているのは、それなりにみんな楽しんでいるが、優雅な暮らしというものではないということである。蓼科の高級別荘地とそこが違うところで、割合生活感を漂わせた人たちの多い別荘地で(私たちもそうだが)そこが気に入っている。

 だから、互助組織のような自治会やオーナー会が発足できたのである。オーナー会の発足の時は地元の新聞にも記事が出たそうである。私もけっこう古い住人なのでオーナー会には参加している。そのオーナー会がいろんなイヴェントをやっているのだが、その一つが新年会なのである。毎年手伝いもかねて出席している。

 2日の午後にYさん一家が訪ねてくる。娘さんは去年結婚したばかりだが、その婿さんも一緒である。婿さんは私と同郷の宇都宮の人であった。その一家の主人も娘夫婦も早稲田出身で、箱根駅伝の往路で早稲田が優勝したことを喜んでいた。主人は、三浦しをんの駅伝小説「風邪が強く吹いている」を読んだそうである。そううえば、三浦しをんも確か早稲田だった。

 私は明治なので、別に早大が優勝したところで何の喜びもないが、考えてみると、私の周りには早稲田出身が多い。一つの理由が、かつて私が某予備校の論文科で教えていたとき、私大論文コースを受け持っていたので、教え子がかなり早稲田に入った。それでいまだに付き合いのある教え子達に早稲田出身が多いのだ。

 今日、箱根駅伝の復路で、9区で大東文化大が、10区で東海大が棄権した。とくに東海大は、区間新を出したスーパースターがいたチームだ。一人の不調が全部をだめにしてしまう駅伝という競技は残酷であると感じた。個人の失敗がこんなにも全体の結果に影響を与える競技は他にないだろう。

 個人競技のマラソンではなく、この箱根駅伝に日本人が熱中するのも分かる気がする。これはまさに共同体同士の競争なのだ。連帯責任を鍛える競技でもある。個人の力が目立つが必ずしもそのことが最後の勝利に結びつかない、しかも、どのチームにも必ず弱い者がいて、故障者がいるかも知れないというリスクを抱えている。そういう物語に満ちた競技なのだ。その意味では、駅伝は、共同体同士の競争文化を伝統的に持つ日本でこそ発達した競技なのだと思う。それにしても、10区で走れなくなった東海大の選手のその後が思いやられる。

 雪を抱いた八ヶ岳がとても美しい。チビも八ヶ岳を背にしてのんきに寝ている。

            消ゆる夢積もる夢あり年あらた

今年の抱負2008/01/07 11:31

 そろそろ仕事である。といってもなかなか身が入らないのは、みなさんと同じ。正月疲れである。昨年はたくさんの原稿を抱えて、それを何とか書き上げたので、今年は、じっくりと自分の研究の方に時間を割きたいと思う。ところが、自分のこととなるとなかなかエンジンがかからない。締め切りの期日が迫らないと原稿の書けない習性が身についてしまっているので、締め切りのない仕事のやり方を忘れてしまったようだ。

 自分の研究というのは、実は、限度を何処に設定するかがとても難しい。資料はあるが、その資料をまとめて本にするとしたとき、その資料の読み込みの精度や、その成果をどのレベルの普遍性へと設定するかで、準備に懸かる時間は何倍もの差が出る。高い水準を望めば、たぶん、私の生きている間に間に合うかどうかの仕事になる。

 何か、少しでも新しいことが出せればいいや、という態度なら、そんなに時間はかからない。が、少しは世の中に影響を与えたいという研究者なら誰もが持つ野心を満足させたいなら、あるいは、徹底して普遍性を追求したいという研究者の本能に忠実ならば、膨大な時間が必要になろう。

 私が研究者になったのはたまたまであって、なってからこういう職業悪くはないという程度のことでやっているところがあるから、大家の研究者を見ると凄いなと思うし自分にはとても真似が出来ないと思う。そういう中途半端な態度が私を大成させないのだが、たぶんこれは変わらないことだろう。

 だが、それなりに研究者の本能もあって、さすがに長くこういうことをやっていると、少しは何かを仕上げようよ、という気持ちになってくる。今年からは、そういう気持ちにもう少し時間を割いていこうと思っている。

 一つは「雲南学」の本を書こうという試みである。雲南文化研究もだいぶ蓄積が出てきて、私の論文数もそれにりにあるので、それをまとめようと思っている。が、問題は「普遍性」である。文化とは何か、そういう問題に私なりに明瞭に答えられなければ本は出せない。従ってそういう抽象度の高い問題をじっくり考える年になりそうだ。

 もう一つは和歌の論である。昨年、和歌の「抒情」についていろいろと書いてきた。その続きを書いてみようと思う。とりあえず「万葉」の抒情についてまとめて、それから近代に入り、正岡子規について書き始めたのが途中になっているからそれを続けて斎藤茂吉辺りから近現代短歌まで含めて書き進めて行こうという心づもりである。こっちのほうは評論的な作業なので気が楽なのであるが、問題はどう時間が作れるかだ。

 以上が今年の抱負であるが、抱負が持てる分だけ今年は余裕があるなあと自分でも感心する。つまり、今年は持ち越しの原稿がないということである。今のところ、依頼原稿も入ってこない。この調子で世間に忘れられない程度に暇を与えてくれたら、私の抱負はきっと形になるだろうと思う。それを楽しみにしたい。

       年あらたわが普遍何処にありや

もう疲れました2008/01/11 00:02

 授業が始まり3日ほど過ぎたがもう疲れた。昨日は、卒業生との新年会。銀座の外れで京橋近くの居酒屋に行く。なかなかおいしい店である。もう7年前の卒業生たちと助手さんとのグループなのだが、毎年もしくは一年おきかで飲み会を開いている。

 助手さんだったYさんは劇団にはいって演劇をしている。本人はなかなか芽が出ないとややあせりを感じているが、そこそこ劇団で仕事も入るので何とか続けているのだという。まあ、好きなことを今やっていて、何とか続けられているのだから、恵まれてるよ、と励ました。このグルーブでの私の役割は、みんなの仕事などの愚痴の聞き役なのだが、みんなは、自分たちこそ仕事で疲れ果てている私の愚痴の聞き役だと思っているだろう。まあお互い様というところだ。

 新年会が終わって神保町のホテルに。次の日、今日は1限目から授業である。こういう時はホテルに泊まる。1限目は、複数の教員のリレー形式で「家族」というテーマでの講義である。私の担当は柳田国男の家族論である。

  柳田国男は、家というのは先祖や子孫までも含む縦の繋がりなのだと強調する。つまり先祖という神を共通して敬う一種の信仰集団のようなイメージを持っている。信仰というと大げさだが、自分は先祖になることで死後の安定を得る、そのためには、先祖を敬わなければならないし、同時に子孫が死んだ自分を祖先として敬わなければならない。そういう縦の時間軸を持つのが家なのだというのである。

 こういう縦の時間軸を抱える家は、ある程度の規模の農家である。が、都市社会の成立によって、この縦軸の家が崩壊し始める。「時代ト農村」の中で柳田はそれを家の自殺、もしくは家の他殺と呼んでいる。

 このような縦軸の家意識を持たない私は、理念としてしか理解できないが、この家の感覚はより普遍的に捉えかえすことは可能だろうと思っている。つまり、何処かで神のような説明できない何かを共有する関係、しかもそれは宗教教団とはまったく違った仕方、例えば、普段は意識しないが、生活儀礼のような生活の様式としてそれを受けついでいるようなあり方であると捉えれば、そうかなという気がする。

 私は家族とは死を共有する関係だと思っている。死は人間にとって宿命であり、逃れられない。この逃れられないあり方を共同で受けいれようとする関係こそ家族ではないかということだ。障害児が生まれたとき、多くの母親はその子を一生育てようとする。そこに何の道徳も理念も介在していないはずだ。自分の力では生きていけない存在をなんの理屈もなしに引き受けることは、ある意味では死という宿命を抱え込むこととおなじ事である。そこの引き受けた方に家族という関係の本質があるのではないか。

 柳田は、たぶん私の考えるような家族の本質を理解していたと思う。だが、柳田はそのような家族のあり方に日本人の理想もしくはアイデンティティを重ねようとした。「先祖の話」では、外地の戦争で死んでいく若者の魂の帰るべき場所こそ家であって、先祖になるのだと柳田は言う。そこには、家のあり方から、日本人の霊魂観や日本人の信仰という問題まで説明しようとする意欲がある。

 このような柳田の家族論は多くの批判にさらされている。例えばそういう理想的な家族から排除される人間が居たはずであり、そういう存在について柳田は黙っている。初期の柳田は、例えば「遠野物語」では、村の家から山には入ってしまった(神隠しにあった)女性達の不可思議の物語を書いている。その女性とは、家や村から疎外された女達だった。家から排除され異界的な存在となるか、あるいは漂泊する女性達、例えば巫女などに関心を抱いていた柳田は、先祖を信仰する縦軸の家を論じる柳田とは違う、というような批判である。

 今日の講義は以上のようなことだった。あと2コマの授業と、教授会を二つ、会議やら雑務やらをこなして、私を先祖として祀ることのない小さな家に何とか帰ってきた。

獅子舞も祝福に来ぬ家に住む

朱蒙の声が変わった2008/01/12 00:50

 今日はセンター試験関係の雑務で出校。何せ全国で何十万人の受験生が一度に受ける試験だから、その実施を担当する現場の人達は大変である。間違いがあると全国的な話題になる。やはり緊張する。

 先日テレビで中国の入学試験の放送をしていたが、こっちの方が大変だ。何せ一度の全国試験の成績でほぼ大学が決まる。とにかくその競争たるや半端ではない。何せ、一流の大学とそうでない大学とでは就職も給与もかなり違う。その格差がすごいからこそ、受験生も親も必死である。その必死さは日本なんて足下にも及ばない。

 小学生の勉強ぶりも放送していたが、親が子供に勉強できない子とは付き合うな、とか、とにかく厳しい。子供たちは悲鳴をあげている。が、それでも子供達が従うのは、学歴のない人達の過酷な人生を社会で目の当たりにしているからだ。親は、子供にああなりたくないなら勉強しろと言い、子供はそれに逆らえない。日本もかつてはそうだった。

 こういう調子だから、大学の教員だって競争は厳しい。授業に5分遅れたら、学生は大学当局にすぐに知らせる。それは遅刻ではなく事故扱いになり、くりかえしたら首になる、と中国の大学の先生から聞いた。アンケートの一番わるい教員はやはり首になるということだ。ほとんど日本の予備校並である。

 私は今管理職として、授業の改善をお願いしたり、学生サービスをもっとして欲しいと教員に頼む立場だが、でも、そこまで厳しくするのはどうかと思っている。最近、学生から、ある授業について苦情が出た。高い授業料を払っているのにこれでは学力が上がらない何とかして欲しいというものだった。

 語学のような授業だと確かに教え方で達成度が違ってくるが、文学のような授業だと目に見えて何が獲得できたなどとは簡単には言えない。教員にも個性がある。あるいは確かに教え方の下手な人もいる。教育も一つの事業なのであって、払った費用に見合う対価が無ければ、その教育は詐欺みたいなものだという認識が今の教育をめぐる環境にはある。それは間違っていないのだ。経済的な余裕のある学生ばかりが学んでいるわけではない。安くはない授業料を払っていい加減な授業されたらたまらないという思いは、当然だろう。

 教育の質をあげるためにいろんな努力をしなければならない。それは当然のことだが、予備校と違って、大学は教員に教え方が下手だからもう契約しませんというわけにはいかない。今ある人材をどう有効に使っていくか、というのは企業経営の最大の難問だろうが、大学だっておなじである。

 一方、教育というのは、人間と人間とが出会う場であって、対価を求めるような具合にはいかない人と人との関わり合いでもある。それはとても曖昧な領域であって、お金を払っているのだからという意見に対して何の説得力もない。でも、それを失ったら、教える方も教えられる方もかなり不幸なのではないかと思わざるを得ない。

 教え方の下手な先生が一人ぐらいいたっていいじゃないか(数が多いと確かに問題だが)、と言いたいがそれを言ったらおしまいである。昔の大学にはそういう教師がいて雑談だけで授業が終わってしまって、それでも人気のある人はいたし、学生は息抜きにそういう授業に出席していたよ、ということも、あまりに違う世界のことのように思える時代になってしまった。

 教師だけではなく、いろんな領域で、支払った費用に対する対価が計算され、その損得勘定によって、人との関係も推し量られる時代を今生きているのだ、という実感をひしひしと感じている。

 話は違うが、録画しておいた韓国時代劇で新年最初の「朱蒙」を見たら、朱蒙の吹き替えの声が違っていた。やけに野太くなっていた。別に少年から大人になった分けでもないのに、いきなり突然に声を変えるな、と言いたかったが、抗議の電話が650本も殺到しているらしい。そりゃそうだ。

             仕事始めうわずる声の教師ども

霧氷2008/01/14 00:14


 昨日(土)の午後は東京ドームで勤め先の新年会。後援会主催でなかなか豪華な新年会である。科長になるとさすがに出席せざるを得ない。行くと、来賓扱いである。最初に壇上で理事や学部長のみなさんと鏡開きをさせられる。私には似つかわしくないが、これも仕事である。

 メタボには天敵とも言えるフルコースの料理をたいらげ、終わるやいなや新宿駅に行き、梓に飛び乗った。茅野に奥さんが迎えに来てくれて、山小屋に。かなり寒くて、出がけに車が凍り付いていてドアを開けるのに大変だったそうである。

 途中スーパーによって買い物をしたが、柳の枝を売っている。何に使うのかと思ったら、小正月の繭玉作りに使う枝である。さすが、地方のスーパーである。東京のスーパーでは売ってない。そのことに妙に感心した。そういえばそろそろどんど焼きだろう。この地域ではかつてあちこちでやっていたのを見かけたが、最近はあまり見かけない。寂しい限りである。

 今日は天気が良くて山は霧氷でとてもきれいである。別荘地で定住してる何人かの人と八島湿原に行くことになった。雪景色がきれいだろうから行ってみようというので、車二台に分乗して昼に出かけた。

 思ったより雪が少なかったが、樹々は霧氷をまとい日光に反射してきらき光っている。こういう光景にはなかなか出会えない。冬は厳しいところだがこういう光景と出会える楽しさがある。鷲が嶺という山の途中まで登って周囲の山々の風景を存分に楽しんで降りてきた。

 帰り車山スキー場のレストランによって昼を食べようということになり、寄ってみたら、大変な混雑である。このスキー場がこんなに混雑するのは珍しい。来てしまったのだからとにかく食べようというので、私は蕎麦コーナーで、天ぷら蕎麦を頼んだ。ここの天ぷら蕎麦は実は有名で、とにかく、天ぷらが山のようになって出てくる。高さは20センチはあるかき揚げの山が一皿にてんこ盛りになってるのである。写真に撮るのを忘れたことが悔やまれる。

 むろん一人で食べられる訳がないが一人前である。さすがに半分食べてもてあました。身体中天ぷら油のにおいがする。噂に聞いていたがこれはすごい。

 昨日と今日といい、メタボの私には最悪の食生活となった。明日は混みそうなので午前中に帰る予定だ。

          もの狂ひて凍りたる路を歩く

女性はたいへん2008/01/17 00:28

 学校が始まり、相変わらず会議の連続。そして今日は「民俗学」の授業。民俗学の授業なんだが、女性性とどう向き合うか、というとても難しいテーマで締めくくった。この授業のテーマが「憑依の文化を探る」で、柳田国男の『妹の力』をテキストにした授業であるからである。

 柳田は、晴の力を秘めた女性性の回復を願ったが、その女性性がどのように社会に役立つのかについては一言も語っていない。むろん、そう簡単には語れないことだろう。むしろ、フェミニズムは、女性性の晴の力(非日常的なイメージ)を 男女差別の根源として否定する。つまり、それこそが作られた制度にすぎないというように。

 上野千鶴子は『家父長制と資本主義』で、近代資本主義が家父長制といかにつるんで女性を搾取したか(例えば家事労働をただ働きさせること等)を論じたが、実は、現代の消費資本主義も女性性を利用している。

 消費資本主義は、消費欲望をいかに掻き立てるかが重要課題である。だから、女性性が消費資本主義のメインのイメージとなる。何故なら、女性性の持つ晴の力は、場を非日常に変えうるからで、その力が、消費という非日常的なエネルギーを引き出すのである。つまり、民俗社会での女性の晴の力が、消費資本主義では消費を促すイメージとして社会化されるのである。

 別な言い方をすれば消費資本主義を女性性が支えているということもできる。が、そのことは、女性性の強制でもある。一方で社会は女性を一人の個人として、女性性とは関係なく生きることを奨励する。とすれば、女性は現代社会において分裂せざるを得ない。その象徴的な例が「キャリアウーマンはエステに通う」である。

 女性性の晴の力を利用すれば巨乳のグラビアアイドル路線もある。が、ほとんどの女性は、女性性とかかわりなく個人として職業人であろうとしてキャリアウーマンをめざす。が、実は、女性性の晴の力を必要とする消費資本主義の中で生きることは、美しくあらねばならないという強迫観念にとらわれることでもある。従って、エステ産業はキャリアウーマンの御用達となって繁盛するというわけだ。

 女性とはなかなか大変だなと思う。でも、逆に言えばそれだけ多様であるということで、面白い生き方でもある。私が自分の中の女性性と向き合っても何も出で来ないし何の意味もないが、君たちは違う、どのように向き合うのか、問われるに違いないと問いかけてこの授業は終わるのである。

 次回はテストである。そのせいかみんな真面目に聞いていた。内容のせいなのか、テストがあるからなのかはわからなかった。

        小正月宿りし神も帰り支度

明日からセンター試験2008/01/18 12:41

 明日からセンター試験である。私の勤め先は会場校であるので、私は今日から二日間勤め先の近くのホテルに泊まり込みである。何しろ朝早くに準備が始まるので、家からの出勤は私には無理だ。

 今日も、その準備でこれから出かける予定。夜は、池袋で出版記念パーティ。私の短歌評論集の装丁をしてくださった間村俊一氏が句集をだされたのでそのお祝いである。かなりの人が集まるだろう。飲み会になるだろうが、どうせホテルに泊まるから丁度よかった。食べ過ぎ飲み過ぎにだけは注意である。昨日から胃の調子がおかしいので気をつけなくては。

 そろそろ身体が軋み始めていて、腰痛もだんだんと出てきた。たぶん仕事量が増えた事が原因だろうが、この私にもそれなりにストレスがあるのだということを最近自覚した。悩みなどは適当にごまかして気楽に生きてきたつもりなのだが、知らずにストレスは溜まっていたらしい。やはり歳なのだなと思う。

 そこで今考えているのは、どうやって通勤を楽にするかで、もっと通勤時間が短くなるところにマンションでもさがすかと思ってはいるのだが、問題は資金で、やはり金がないと世の中そうは思い通りにならないものである。まして今の部屋一杯の本の処分を考えたらとても引っ越しは無理そうだ。そこで、勤め先の近くにワンルームマンションを借りて私だけ単身赴任するという案が浮上。これも金がかかるが、ずっとというわけではないし、月に何日もホテルに泊まる今の生活を考えたら借りても同じではということになった。

 まだ決めていないがそういうことになるかと思う。問題は近くに安くていいところが上手く見つかるかどうかだが、無いことはないだろうと思っている。

 授業はほぼ終了。あとはテストである。今までとは違う種類の忙しい時期である。

 最近読んだ本。中沢新一『芸術人類学』、河添房江『源氏物語と東アジア世界』、工藤隆『日本起源の古代から読む』。芸術人類学は、カイエソバージュシリーズの延長にある本。分かりやすくて面白かった。私もアニミズム的な世界の現在的な意味を考えようとしているので、中沢新一の最近の本はいろいろと勉強になる。ただ、その理論はかなり抽象度が高すぎて、と言うより対象に合わせて抽象度の高さを自在に変えていくところがあるので、そこからこぼれ落ちる諸々が気になる。

 河添さんの『源氏物語と東アジア世界』も面白かった。工藤さんの『日本起源の古代から読む』もそうだが、日本はアジアの辺境である。その辺境であることを拒絶する事で日本という国家の自意識とそれを支える諸々の観念が成立した。その諸々には、文学つまり物語も神話も入っている。

 従って、もう一度辺境の小民族であるという視点から、自分たちを相対化することは必要だろう。河添さんは源氏物語において、工藤さんは古事記でそれをやろうとしている。むろん方法は違うとしても、促しているものは同じであると見た。

       
     辺境の日本てなんだ読み始め

センター試験終わる2008/01/21 00:51

 センター試験が終わった。やっと2日間の拘束から解放された。私は本部詰めだったので、試験業務の最初から最後まで立ち会わざるを得ず、とにかく一日12時間、2日間試験本部でじっとしていた。試験監督をするわけでもなく、ただじっと坐っているのが私の仕事である。最後に答案を送り出してやっと仕事が終わる。

 それにしても日本で54万人が一斉にセンター試験和受けている訳だが、それをいかに公平に行うか、その神経の配り方は並ではない。試験時間が5秒短かったりしたら、その試験はやり直しである。5秒ぐらいいいじゃない、と思うがそうはいかないのだ。よくあるのが携帯を切れというのに、鞄の中で携帯が鳴ってってしまうケース。30秒鳴ったために、その会場の受験生は再試験になったと報じられていた。

 徳島大では、ある試験監督が試験前に受験番号と名前を書くようにと指示を出さなかったために、その教室の希望者は再試験になったと報じられた。そんなの受験生が書くのは当たり前だろう。要するに、受ける側は試験の結果が悪ければ試験のやり方に問題があるのだと思いたい。5秒短かったために一題損したと言うように。あるいは、携帯の音で出来なかったとか、きちんと指示してくれないから忘れたとか。それにしてもその程度で全国のニュースになってしまうというのは大げさである。やっているほうはたまったもんじゃないだろう。

 さすがに何もやることがないので待機中に、福岡伸一『生物と無生物の間』を読む。ベストセラーの理系の本だがさすがに面白かった。この人分子生物学者にしては文章がうまい。

 分子は何故あんなに小さく人間は何故こんなに大きいのか、という問いかけが一番面白い。答えは、大きいというのは、流動化するエネルギーが平衡するから、つまり、一つの形状を保つにはある程度の大きさが必要で、小さくなればなるほど、生命とは流動的になるということなのだ。言わば、人間という固体は、流動化する分子の形状記憶された集合体であるに過ぎないというわけだ。

 生命という謎はわかったわけではないが、少なくとも、物質というレベルでの生命というものの姿は理解できた。それはほとんど「無」の世界である。この世にあるなんて一瞬に過ぎない、という仏教的な教えそのものである。誰が作ったかしらないが、何でこんなもの作ったのか、と問いたくなるのは確かだ。

 金曜日夜の間村俊一の句集出版記念パーティは凄かった。会場は人であふれていた。さすが当代一の売れっ子の装幀家である。『鶴の鬱』という句集もまた好かった。塚本邦雄に影響を受けた句集だと自他認めている。私の俳句など恥ずかしいくらいだ。ただ、高橋睦郎にもっと実感で俳句を作れと言われていたのは面白かった。

         小豆粥啜るこの世も無ならむや

通勤コースを変える2008/01/23 01:26

 今日は会議日であるが、とにかく忙しかった。まずは単位認定の問題があって、私たちの学科ではTOEICの点数によって単位を認定するというようにしているのだが、この単位認定を全学的な教養教育の科目でやってもらおうとしたところ、その科目では出来ないという方針が出された。そこで、わが学科では困ってしまった。学生に単位が取れるよと宣伝していたからだ。そこで今日、教養教育の委員会で何とか単位認定出来ないかと私がお願いをし、認めてもらえた。

 しかし、実は、この単位認定を認めない決定にかかわっていたのも私なのである。つまり、私は教養教育の委員の一人でもある。けっこう中心的な役割を担っている。一方で学科の代表である私が教養教育の委員である私に会議でお願いをするということになったわけである。認めない理由もそれなりにあったのだが、こんなにこじれる前に私が対処していればこんなみっともないことにならずに済んだのだ。まあこんなことはしょっちゅうある。

 体調不良の学生の相談もあった。勤務に関する相談もあった。改組に関する相談もあった。次から次へと私は対応に追われ、そして最後に入試委員会。

 毎日一般入試の志願者状況が通知されてくる。昨年の今と比較し、何人マイナスとかプラスとかその数が出てくる。この数は、ある意味では、わが学科の価値を示す指標であるからかなり気になる。あまり気分のいい時期ではない。

 帰りは気分を変えるために通勤通路を変えた。三田線にのって春日で降り、丸の内線の後楽園まで行く。この乗り換えの経路がかなり長い。何台ものエスカレーターを乗り降りするが、けっこうアップダウンで大江戸線のホームを端から端まで歩くとか迷路のようで面白い。時間はかかるが、気分転換になるので時々このコースを使う。池袋で東上線の急行に乗ったがむろん座れない。明日も又会議である。

       大寒や着ぶくれてただ帰るのみ