クリスマスか2007/12/24 00:16

 昨日、今日と原稿書きである。何とか20枚程度は書いたのだが、あまり気に入らない。もともと今年の学会での発表の原稿を基にしたもので、その発表自体、理屈っぽいものだつたので、原稿化するとやはり、思いつき的な要素がかなり表に出てしまう。

 こういう場合、問題意識の面白さで勝負するしかない。面白さに自信はあるのだが、この歳になってまだ面白さで論文書いているようじゃだめだなあと思うこともある。面白さで勝負するのは若さの特権であって、私の歳になるとそろそろ発想の面白さではなく、論の背後の思想や世界観の魅力で人を惹きつけないと、みっともないのではないかとも思う。

 世界観はあることはある。がまだ上手くことばに出来るほどでないのは、ひとえに忙しさのせいだと思っている。思想や世界観を鍛えるのは、それこそ思索の時間をたっぷり取らなければ無理だ。走りながらできるものでもない。ここ数年は無理だろう。でも、あきらめはしない。そのうち、きっと仕事が暇になる。勤め先が潰れるなんてことはないだろうが、とにかく、もう自分の研究をしなさいと、神様が時間をくれるに違いない。その時がくることを楽しみに待つことにする。

 今日は友人宅に餅つきに行く予定だったが、天気が悪いということで中止にした。その分原稿は進んだが、体調は疲れが出たせいかあまり良くはない。明日24日に山小屋に行くことした。原稿は向こうで仕上げて送ればいいだろう。

 明日はクリスマスのようだ。最近は自宅近くの家でもイルミネーション電飾を飾る家が多くなった。電気代はかかるだろうが、こういう楽しみ方は悪くはないなと思う。それは家族がうまくやっていることの証でもあるから、なんとなく明るくていい。私など、子供の時からクリスマスも誕生日も、そういう家庭行事とは無縁で育ってきたから、ある意味で羨ましくさえ思う。そういう行事をやらなかったのは、家族の複雑さもあったが貧乏だったからだ。

 柳田国男は家族は宗教コミュニティのようなものだと言う。家族をつなぐものは、先祖という神を信仰することにあるからだ。つまり、家族の繋がりを保証するのはまつりごとなのである。クリスマスの習慣も、先祖をまつらなくなった日本の家庭で、このまつりごとの記憶が一瞬よみがえる貴重な祝い事の機会なのかもしれない。クリスマスは、数少ない日本の家族の晴の儀礼だということか。   

         クリスマスアジアの果てで栄えけり

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