家の他殺2007/12/20 23:35

  昨夜は近くのホテルに。とにかく、今日は朝1限の授業があり、そして5限の授業まで4コマある。その間に会議と、今年一番の忙しさである。それで家には一日帰ったばかりで、またホテルに。ホテルの良さは、暖房が効いて暖かいということと、とにかく通勤がないということだけで、そんなにくつろげるわけではない。くつろげるほどの好いホテルなんかに泊まっていないから。問題は食事で、コレステロール取りすぎの私としては、外食は天敵なのである。ここ数日、私のコレステロールは確実に高くなったことだろう。

 朝の1限目は、教養講座の企画物で、「家族」がテーマ。私は2回分だけを担当すればよい。さすがに朝1限の授業は出席者は少ない。柳田国男の紹介をしながら、柳田の家族観を語る。柳田は、「家の永続」を重視する。先祖を祭らず子孫を残さないものを「家の自殺」とかもっと厳しく「家の他殺」とまで言う。

 柳田にとって家とは、現在の家を構成する家族を意味するのではないのである。先祖や、子孫を含めて家なのである。それを「縦の団結」と呼んでいる。柳田は、この家の「縦の団結」が崩壊始めていることを、明治43年の「時代ト農政」の中で論じている。田舎から地方へと人が流れ、家の他殺が増えていることを危惧しているのである。

 この柳田の考え方は、家族の理想化であるとか、家族と国家をつなげたものであるとかとかく保守的な思想として批判されるのだが、別な見方があってもいいだろう。先祖や子孫も含めてコミュティとしての家という概念は、ある意味では、われわれが過去や未来という長いスパンを生きているということを前提に成り立つ。つまり、現在だけを生きているわけではないということを、ある意味で形にした関係であると言える。

 子孫も含めて家族と言うことは、子孫につまり将来に責任を持つということであり、先祖を祭ることは、過去に責任を持つということである。そう考えたとき、それはとてもまっとうな思想だろう。例えば現在の環境問題は、子孫という未来を考えずに現在の繁栄を謳歌した結果でもある。死んだ者を大事にしない心のあり方は、それこそ空虚で孤独な人間を作る。

 そういった思想を個人の意志的な思想の問題として構築できないことはすでに明らかになっている。だとしたら、個人ではない人間の存在の仕方、例えば家族あるいは家という関係の存在の仕方、それはある意味では個の対極にあるものだが、そこにも何らかの可能性はあるのでは、と思うこともありなのではないか。

 柳田の言う「家」は、過去や未来を含みこんだ存在の仕方そのものである。それを個というレベルで構築出来なかったから、現代社会の様々な問題は起こっているのである。だとしたら、「家」を新しい関係のあり方として見ることもありである。むろん、それは古い家の復活ではもちろんない。

 私は、柳田の言い方で言えば、家を殺してしまった罪人である。子供と呼べるのは犬のチビだけだから。こういう私でも、未来を含みこんだ関係の中を生きられるのか、それを考えること、それが柳田の言う「家」の現代的なテーマだということだ。

      着ぶくれて過去や未来がひしひしと