「ホジュン」にはまる2007/11/19 00:49

 先週金曜日は、地元の市の診療所で人間ドックに入る。勤め先の決まりで一年に一回は健康診断を受けなればならない。それでいつも行つている私立の人間ドック専門の医院に電話したら、今年は予約が一杯でだめだと断られた。仕方なく、近くの市の診療所に電話したらいつでもOKという。さっそく行ってみると、その日は人間ドックは私一人であった。大丈夫かなあ、と多少不安ではあったが、なにしろ一人だから、親切だし、順番待ちなんてことはない。早く終わってしまった。それにしても、もう少し営業努力をしないと潰れるのじゃないかと心配になった。

 結果はまだ出ていないが、体脂肪率は16%、体内年齢は33歳と出た。ところが脂肪肝であると言われた。何で体脂肪率が16%で脂肪肝なんだ。脂肪肝だけは毎年言われっぱなしで改善していない。

 今日は、公募制推薦の入試で、一日出校。この日はいつも東京女子マラソンでの日で、私の勤め先の建物の真下を通る。確か昨年だったか一昨年だったか、高橋尚子が復活した時も上からマラソンを見ていた。今日は忙しくてそれどころではなかった。

 土曜から韓国のテレビドラマシリーズの「ホジュン」にはまって、DVDを借りてきてずっと見ている。「チャングム」の男性版といった内容のドラマである。両班を父に持つが、母が妾で下層の出身のために、若いときは荒くれだった主人公ホジュンは、ひょんなことから、民衆のために生きる名医ユウィテと出会い、そこで修行をしながら医者の道を志すことになる。

 ユウィテの息子ドジは優秀だが性格が良くない。ドジは義妹の美しいイェジンを思うが、イェジンはホジュンを慕う。が、ホジュンは彼を慕ってきた両班の娘と結婚し子供を儲ける。ドジは、科挙に受かり内医院にはいり宮廷医官を目指す。ホジュンは、師の医術を学び貧しい人々の治療に尽くすが、師の死をきっかけに科挙を受けて内医院に入る。

とにかく、ホジュンの前には幾多の敵がいて、彼が宮廷医官の最高位になるのを邪魔するのである。チャングムが毎回虐められてそしてそれを克服していくのと同じ展開といってよい。そして、彼をめぐる女性や、報われぬ恋に苦しむもの達の相関図がまた上手くできている。

 登場人物は、「チャングムの誓い」で王様役だったものが、イェジンを慕う若き官人の役で出ている。道化役だったチャングムのおじさん役は、ユウィテ医院でホジュンと同じ医員の役として出ている。彼は医員をあきらめホジュンにくっついて都に行き、宮廷の薬草庫で働く。やはり道化役である。その他「チャングムの誓い」に出てきた人達があちこちに出ていて懐かしい。ホジュンの役は「朱蒙」のクムア王もやっているチョン・グアンヨルである。

 こんなドラマ見ている場合ではないのだが。それでも、何とか、紀要の穴埋め原稿を60枚書き上げた。題は「恋の障害」。万葉集の歌に出てくる代表的な恋の障害である「母」や「噂」の分析と、少数民族の歌垣の歌の中の、同じような恋の障害との比較分析である。穴埋め原稿とはいえ、けっこう面白いかも知れない。そういう期待感がある。

         木の葉髪撫でつつ語るひとがいる

自己実現2007/11/21 01:32

 さすがに冬めいてきて、行き帰りの特に家から駅までの道のりが寒くなった。まだコートは着ていないが、そろそろコートを着るようだ。

 管理職をやっているといろんなストレスがあるが、でも一番のストレスは授業が上手くいかなかったときである。手を抜いているわけではないが、用意周到に準備して、学生を乗せて、90分飽きさせなくて、しかも、できれば感動くらいさせて終わりたいというのが理想だ。理想が高いせいか、うまくいかないとかなりストレスになる。

 この教えるという職業を、塾講師、予備校講師、そしてあちこちの大学の非常勤と、そして今の職場ともう20年もやっている。20年やっているが、自分が優れた教師だとは一度も思ったことはない。そんなに話がうまいわけじゃないし、授業で歌が歌えるわけでも冗談や洒落が出るわけでもない。学生を楽しませる技術はそんなにない。あるとすれば、労を惜しまないということくらいだが、限界というものがあって、いつも十全な準備ができるわけでもない。

 それでも何とか教員をやっていられるのは、何人かは真剣に私の話を聞いていてくれているという自信があるからである。ほんとうは全員に真剣に聞いて欲しいが、それは超有名人か神様か詐欺師にならなければ無理だ。それから、俺の話を聞かないと君たちは損だぞ、というくらいの気迫はまだある。これがなくなったらおしまいだろうなと思う。

 月曜の「自己開発トレーニング」の授業で、「自己実現度」を数値でだす心理テストのようなものをやってもらったが、その時、自己実現度とは、あるべき自分とそこに到達していない自分(今の自分)との距離を埋めようとする努力の度合いのことで、この距離が大きくてしかもその距離を埋める努力に明るく積極的であれば、自己実現度は高いのだと説明した。

 今の私の自己実現度にとって大きな要素は、いい論文を書くことより、授業を上手くやることである。別に私は教育者であると言いたいわけではない。それが出来なかったときのストレス値が一番高くなるのが授業だからだ。つまりなんだかんだ言っても授業がやはり私の本業なのだ、ということである。この本業を外して余技でいくら評価されても私は明るく積極的に生きられないということだ。

 それなのに、授業がなかなかうまくいかないことが多いので私の疲れやストレスは貯まるのである。こういうストレスはたぶん誰でも同じように持っているだろう。長生きするつもりはないが、せめて明るく生きたいとは思う。そのためには本業を大事にしないとと思うが、なかなか思うようにはいかない。学生のではなく、私自身の自己開発トレーニングが必要なようだ。

        冬めくやことばなくて木の葉さやぐ

『よせやい』を読む2007/11/23 00:26

今日は朝から授業と会議で忙しい日だが、3時に卒業生が二人私の部屋に訪れた。ケーキを出して、一時間ほどいろいろ雑談。楽しい時間をすごした。その後は、入学前教育の打ち合わせである。入学前の高校生の学力を把握し、遅れているものについては課題を与えて基礎的な勉強をさせる。というプログラムをどう作るかという会議である。費用と手間暇かければ出来ないことはないが、なかなかハードルが高そう、というのが私の感想である。

 口承文藝学会編の『シリーズことばの世界 うたう』(三弥生書店)が送られてきた。私は「ぺー族の掛け合い歌」について書いている。この本、「ことば」という切り口でいろんな歌を扱っていて、なかなか面白い。

 吉本隆明の『よせやい』と、田村裕『ホームレス中学生』を読了。吉本さんの本は思想の雑談といったインタビュー形式だが、ところどころやはり面白いなあと思うところはある。その中で、学校の先生は教え方などうまくなくてもいいんだと言っているところが、教え方に悩んでいる私としては救いであった。

 どうせ学校で勉強したってそんなものは残らないんだから、というのが理屈だ。生徒に残るのは、その先生の人柄や生き方から滲み出るちょっとしたことであって、そういうことの方がずっと記憶に残って影響を与えるものなのだ、と言う。確かに、そういわれりゃそうだが、だから教え方などいいかげんでいいんだという訳にはいかないだろう。たとえ残らないにしても、それはそれで完璧を目指すのがプロというものだろう。

 この本のキーワードは、「構想力」「自意識」「人間力」である。今それらが問われているという。分かりづらいのが「自意識」だろうか。自我ということではなく、公共的なものに対して、自分はこれはおかしいといった違和をきちんと持てるかどうかだと言うことに近いようだ。それは「構想力」にもつながる。自分の生きている世界に対して、ささやかであっても自分なりの見通しを持つことが大事なのだと言うことだ。

 私はとても「構想力」も「自意識」も自信がないからあとすがるのは「人間力」だけだ。が、これも理想を描き得る能力ということのようだから、つまり、これらのキーワードは同じなのだということになろう。右顧左眄せずに自信を持って生きろと言われているようなものである。

 『ホームレス中学生』はすでに100万部売れているという。確かに、面白いと言えば言えるが、100万人が買わなくてもいいだろうに、と思ったのは確かだ。突然父親に「解散」と言われて、ホームレス生活をする三人兄弟の話は、なかなか読ませるが、面白いのはそこだけで、後は、普通の話になってしまった。同じお笑い芸人がだした『一人二役』もそうだが、キーワードは親子愛であり、素直さである。ジェットコースターのような人生と、純情さ、そして社会的な成功、というとりあえずのベストセラー要素は揃っているということだろう。

 帰り花つぼみの裂けてひらきたる

面接2007/11/23 23:10

 今日は指定校推薦の面接である。私は、今日一日で24人の面接をした。一人15分から20分だから、朝から夕方までかかった。とにかく疲れた。それだけ志願者が多かったからでありがたいことであるが、責任というものもひしひしと感じる。

 だいたい同じ質問をする。受験生の答え方もそんなに違わない。指定校は原則として落とさないので、面接する方もされる方も他の推薦入試の面接ほどには緊張しない。型通りに質問し型どおりに答えが返ってくる。そのうち、前の受験生と今の受験生とが頭の中で区別がつかなくなり、こんがらがってきて、同じ質問を二回したりする。

 今年面接してみて気付いたのは、けっこうスポーツ系が多いということだ。バスケットをやっている学生がけっこういた。みな背が高かった。結局、受験勉強より部活に熱心で、指定校枠に入れたのでうちに応募してきたということらしい。みな明るくていい子である。一人だけちょっと緊張しすぎて上手く話せない子もいたが、そうじて満足のいく面接であった。

 気になったのは、短大を志願する理由で、経済的な理由が多かったことだ。やはり時代を反映している。中には成績が優秀な子もいる。経済的事情が許せば四大に行きたいという受験生もいる。そう願うが、でもわが短大にとっては、そういう学生が来てくれることがありがたいのだ。

 奥さんは山小屋に出かけた。私は、明日は科研の研究会で奈良の万葉ミュージアムへ行く。明後日は、私の勤務先で某学会の大会がある。午前中に京都を出れば昼には東京につくので学校に直行する予定。私もかつて運営委員などをしていたこともあって、手伝わなくてはいけないのだが、まあ日曜は顔を出しておこう。

           散紅葉いろんな思いを隠しけり

文学の黄泉がえり2007/11/27 00:37

 土曜に奈良の万葉ミュージアムにて研究会。夜は京都のいつものホテルが観光客で満員で予約がとれずに、高槻のホテルに泊まる。そこで夕食をとったが、研究会のメンバーと酒を飲んでいたら、やや貧血気味になり、ふと意識を失った。一分くらいだったが、その時何かをぶつぶつ言っていたらしい。全く覚えていないのだか、神懸かったのだろうか。というのは冗談で、ここんところ疲れが溜まってきたせいか、ふと気がゆるんで酒をやや飲み過ぎたというところだ。気をつけねば。

 次の日は早めに出て東京に昼に着いた。午後は私の勤め先で学会のシンポジウムがあり、そのシンポジウムに顔を出す。あまり期待しないで行ったのだが、シンポジウムはけっこう面白かった。

 3人の発表と討論だったが、「文学の黄泉がえり」という面白いテーマである。文学は死んだという評価があちこちで言われている今、文学はどんな風によみがえるのか、というテーマだが、共通した内容としては、文学は、サブカルチャーの中に取り込まれ変貌を遂げながらけっこうよみがえっていく、という趣旨であった。ただ、そのことを了解しつつも、パネラーのそれを評価する態度はかなり違っている、というところが面白かった。

 フェミニズム批評の立場からのパネラーは、太宰治の「女性徒」をとりあげ、「女性徒」という作品の元になった、太宰ファンの少女の手紙という表現を作家が収奪していくその構造は変わらないのではないかと言う。つまり、少女の手紙がネットワークに載って膨大なサブカルチャー文化になって、太宰の文学を超えたとしても、実は、作家はそのサブカルチャーを自分の権力の維持のために利用するという構造は保持されるのだと、批判する。

 それに対して、他のパネラー、特に、エンタメ系の婦女子の表現が扱っている評論家は、あるエンタメ系の作家が生み出す主人公をモデルに次のように述べる。サブカルチャー的な膨大な言葉の世界は、それ自体世界を痛みとして感受する情報の蓄積そのものであって、その閉じられた内部では、抑圧(権力)と被抑圧との関係が絶えず反転していくような、流動性そのものなのである。例えば、それは、単純な男(抑圧)、女(被抑圧)という権力関係を作らない。むしろ、レズビアン同士の抑圧・被抑圧関係なのだということだ。

 つまり、被抑圧的な位置にある言葉が、メディアや情報ツールの中で増殖し、膨大なサブカルチャーに変貌を遂げるとき、それ自体の構造の中に流動的で絶えず反転する抑圧と被抑圧の世界を生み出す。とすれば、シンプルな抑圧と被抑圧といった従来の古典的権力関係そのものはすでに成立しないのではないか、ということになる。

 こういうことだ。増殖するメディアの中で怪物化したサブカルチャー的言語世界は、実は、それ自体が世界を痛みとして感受する悲痛の総体なのだ。だから、引きこもりという姿勢の中でしかそれは増殖しない。とすれば、自衛隊を海外に派遣するような国家(権力)に従属して、というよりその被抑圧的な位置にいることに何の意味も見いだせないということになる。何故なら、権力が権力であるためには、庇護下にある国民の苦痛を取り除かねばならない。そのために、国民は税金を納めている。が、サブカルチャー化した国民の苦痛を国家は取り除くことが出来ない。何故なら、サブカルチャー化した国民は自分の内のバーチャル的な世界で、国家をもそのバーチャル的世界を構成する要素として取り込んでしまうからである。

 そのことは何を意味するのか。国家という権力を一見無化してしまうように見えるのだから、一種の革命なのか。むろん、そうではないだろうが、ただ、従来のシンプルな権力関係を乗り越えてしまったのは確かである。問題なのは、怪物化したサブカルチャー的言語世界が、壮大な痛みそのものであると理解したとき、たぶんその理解は誰にも共有されるだろうが、その痛みを解放するなにものもない、ということもまた共有されているということなのである。だから革命ではない。

 サブカルチャー的言語世界がどんなに怪物化しても、シンプルな権力の抑圧・被抑圧の構造からは逃れられないのだという見解もまた正しいだろうが、そういう発想は、このサブカルチャーの痛ましさから目を背けようとする発想でもあるだろう。

 目に見える権力があって、それと闘うという態度を保持できる事がどんなに幸せなことか。そういう意味では、文学がよみがえろうとしている、というより取り込まれているサブカルチャー的言語世界は、むしろ、黄泉の国以上の黄泉である。そういうことをひしひしと感じさせてくれたシンポジウムであった。

         抑圧されしもの浅漬け食うて寝る

身体の問題2007/11/29 00:46

 先週受けた人間ドックの結果が届いて、やはりコレステロールが高かった。すぐに治療しろと書いてある。これも体質なのだろう。というより、やはり職業選択を間違ったというしかない。肉体労働向きの身体なのに、身体を動かさない精神労働ばかりやっているからこうなるのだということだ。

 養老猛司ではないが、脳だけで生きている、というのは人間の生き方としては不自然なのだ。養老猛司によれば、脳とは、頭の中の部分を言うのではないという。体中の神経組織もまた脳を構成する一部分であって、従って、身体を動かすことは脳を使っていることにもなるということだ。ただ、外界への情報のやりとりというレベルで言うと、身体組織はあえて鈍く出来ているはずだ。そうでないと、個体の身体は外界の情報に翻弄され、その固有の身体を失ってしまうはずだからだ。

 自然のあまりのゆったりとして動きには、人間の身体は苛立ち、意志的にスピードを上げて動くが、社会の中での情報のやり取りに対しては、身体は逆に動かない自然であるかのように動きを鈍くする。そうしないと、心の中の感情という深さにまで到達しかねない外界との接触反応をうまく抑制できないからだ。外界の刺激とは常に痛みのようなものであって、情報とはまた外界の刺激の一つであるとすれば、情報過多の現代は膨大な痛みに満ちた時代である。

 だれでも動かない自然に似た身体を持っているから、刺激に満ちたこの現代の痛みの中で生きていられる。身体が時に不調で痛むとしても、それはとりあえず身体の「病」であって、自然が不変でないように命あるものは不変ではないということによって受け止め可能である。が、自然の身体から切り離された、過剰な情報に接触することによってもたらされる痛みは、それを仕方がないと受け止めるどんな論理もない。

 このように書いてみたのは、先週の日文協のシンポジウムの中で、小谷真理さんが紹介していた小説、飛浩隆「ラギッド・ガール」の、膨大な情報の痛みをその皮膚で受け止める主人公阿形渓のことを思い出したからだ。

 自然的な身体を失って、頭の中の脳、つまり、情報処理装置のようなものだけで生きてしまえば、身体は、情報受信装置の先端に過ぎないのであって、当然、その面積を拡大して多量の情報を受け取ろうとする。身体は肥大化し、化け物のようになるだろう。自然的な鈍い身体というものはそこにはない。

 私の身体はたぶんやや肥大化し、自然的な身体であることを止めようとしているのではないかと思う。止めればどうなるか。自身の自然の生理を支えきれずに自壊作用が始まるだけだ。コレステロールが高過ぎるというのを理屈づけていくとそういうことになる。情報処理装置の先端として存在するほど私の身体は高級ではないということだ。

        ひたすらに大根洗ふ冷たさや

入学前に…2007/11/30 01:07

 今日は授業を3コマ、会議が四つ続くという超ハードな一日であった。課外講習で「万葉集」を教えているのだが、この万葉の授業が入ったので、一日3コマということになった。

 会議は教授会が二つと、小さな会議が二つ。最後の会議が終わったのは7時半。小学館の地下の蕎麦屋で夕飯を食べ、地下鉄で帰る。家に着いたのが9時半である。さすがにへとへとである。

 最後の会議は入学前教育をどうやるかという打ち合わせである。わが学科では、かなりの人数を推薦で取っている。つまり、きちんとして学力考査なしに入学させるのであるから、当然、中には基礎学力不足の学生がいる。しかも、高校3年の時に卒業の半年前に決まってしまうから、半分の学期は遊んでしまうという高校生が多い。

 こういう学力不足の高校生の教育をどうするのか、というのが、今どこの大学でも問われているのである。さすがに、予備校とかの受験産業というのは、そういう高校生のための補習プログラムというのを作っていて、今日、そのいくつかのプログラムと見積もりとを出してもらい検討した。

 まだ検討している段階であるが、かりにやれるとすれば、業者の学力テストを用いて合格した学生の学力を把握し、必要な学生にはこちらが用意した学習プログラムをやってもらうということになるだろう。むろん、入学前にである。ただ、業者に頼めば金がかかる。かといって教員でそれをやる余裕はとてもじゃないがない。

 だから、入学前教育が出来るかどうかは、経営判断という要素も加わる。さすがに、入学前教育で検索するとあちこちの大学でやっている。インターネットを使って、高校生に学習させている(eラーニング)をやってるところもある。

 全入時代とか言われて、厳しい試験無しに入学させざるを得ない多くの大学は、大学で教育をうけさせるための準備の教育にけっこう金を使って、いろいろ苦労しているのだ。われわればかりではない。

 私のところも入学前教育に一歩踏み出すことにした。推薦で合格した受験生はよもや学力テストを受けるなんて思ってもいないだろうが、学力テストを受けてもらうことになりそうだ。基礎的教育に、読み書きそろばんという言い方がある。そろばんはないが、読み書きのほうをここまでしてやるとは思わなかった。

 入学して一年たったらまた同じようなテストをして、どの位実力がついたかを数値で図るということも考えている。むろん、学力と教養は違う。テストで計れるものではない。が、あるレベルまでは、学力は必要なのだ。教養があろうとなかろうと生きていけるが、あるレベルの学力がなければ生きていけない。そういう世の中に学生を送り出す身としては、頼むから最低限の読み書きそろばんを習得して、何とかこの厳しい社会を乗り切ってくれ、と祈るばかりである。

        教養など笑い飛ばして冬に入る

療養と原稿書きと2007/11/30 23:52

 久しぶりに山小屋へ。といってもどちらかというと療養という感じだ。頸椎症が昨日あたりからひどくなって、今日は朝から気分が悪い。仕事疲れということか。考えてみれば、先週は、推薦入試で忙しく週末は科研の研究会で出張と休む間もなく働いていた。風邪を引かないのが不思議なくらいである。

 が、療養などしている暇はない。原稿を書かなくてはならない。月曜までに何とか15枚ほどの古代の「語彙」に関する原稿を仕上げて、それから、12月半ばまでに学会誌の原稿を20枚ほど書かなきゃならない。

 ということで、車に参考書や資料などをごっそり乗せて山小屋に来てはみたが、やはり、どうも仕事をする気になれない。いつものことであるが。まだまだ自分を追い込んでいないということか。まずは構想である。この構想が出来てしまえば、その構想に従って、資料を調べ、書き進めることができる。

 構想とは、大きくは、私の文学観、世界観に基づく発想であるが、具体的な部分についてはひらめきに頼る。問題はこのひらめきであって、そう簡単にひらめいてくれるわけではない。ひらめかなければ書き出せない。

 研究論文は何もひらめきなど必要はないという考え方もあろう。が、アイデアのない論文は面白くはない。アイデアがないということは、研究に対して、おもしろがったり、好奇心を抱いたり、夢中になったりするという契機がないことを証明しているようなものだからだ。

 私が忙しいにもかかわらず、年に何本もの原稿が書けるのは、この、好奇心やおもしろがるということについてまだ枯渇していないからだ。これが枯渇したら、引退だろうなとは思う。

 けれども、新しい原稿を書く度にそろそろ枯渇かなといつも思う。けっこう厳しい世界で生きてもいるのである。今週、教授会で、先生方に苦言を呈した。学科の紀要にもっと原稿を書いて欲しいとお願いをした。みなさんとても忙しいことはよくわかる。が、私より忙しい人はいないはずだ。その私が一番原稿書いているのだから、忙しいというのはいいわけにはならない。そういう私を学科長にしたのが間違いである。

 ということで、今週末は、原稿書きと療養という相矛盾したことで過ごす予定だ。

          八ヶ岳掴みし雲よ冬に入る