なんのために本を読む2007/10/05 01:25

 今週はさすがに睡眠時間が少ない。毎日会議でけっこう帰宅時間が遅くなり、夜は、アジア民族文化学会の発送の準備で時間が潰れる。それに、とりあえずは論文のための資料も目を通すなどやることはたくさんある。

 今日は、前期千字エッセイコンテストの表彰式。表彰状も、私が池袋の東急ハンズで買ってきて、パソコンでそれらしく印刷して揃えた。東急ハンズで買うのは、そこにしか、パソコンで作れてしかも見栄えのいいのがないからである。

 読書室だよりも、少しは充実してきた。興味のある人は以下のアドレスへ。 http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/bunka/dokusyo/index.html
が、まだ工事中でこの充実も課題である。読書室委員の集まりも悪く、少しいい企画を考えないといけないか。推薦図書をもうちょつと充実しようという話になった。何かいい本ないかと聞いたが、前期でだいたい出てしまったので、なかなか出てこない。

 携帯小説の「恋空」とか、「紀香魂」はというのもでた。さすがに流行のものには敏感だ。ただ、一応推薦図書で、読書レポートを課すんだからなあ、「紀香魂」読んでどんなレポート書くんだろうか。優良図書ばかりでも面白くないけど、ただ話題性というだけの本もなあ、ということで、保留にした。

 それにしても今の時代、本を読むとはどういうことなんだろうか。私の若いときは、強迫観念のように本を読んだ。必ず文庫本を持って外に出た。たぶん、本に対する「餓え」のようなものがあったのだろうと思う。今の学生を見ていると、知識に飢えている様子はないし、むしろ、溢れる情報のなかを巧みに泳ぐ身のこなしが、羨ましいほどである。

 私などは、本をたくさん読めば、今の自分ではない何者かになれるような期待があったのは確かだ。今決定的にないのはそういう期待だろう。何者かになるためには、情報やノウハウの詰まった実用書を読むという時代なのである。そういうのは本でなくても手に入れることが出来る。そしてその「何者」なるものも、理想的でよくわからない茫漠としたものではないのだ。

 こういう時代に、本を読ませるという運動を試みるのは、けっこう困難なのかも知れない。あまり上昇志向や啓蒙的な読書ではなく、とりあえず、本というものが目の前にあって、それを手にとって読む時間を少しでも持つ習慣を作ること。そのためなら「紀香魂」でもいいではないか、という気になる。というわけで「紀香魂」買って読まなきゃならん。

        稲雀何を思うて腹満たす
        
        女子たちよ読書せんとや秋高し

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