留学生2007/09/19 00:42

 今日は朝から会議で出校。さすがに疲れた。昼に近くのJTBで22日に行く奈良への切符を買いに行く。これで三度目になるが、年六回行くことになっている。橿原神宮へ年六回も行くというのに、まだ周囲を散策していない。万葉を専門としているのに、もったいないと言えばもったいない。どいうわけかいつもとんぼ返りで、ほんとにただの出張になっている。

 今度も連休ではあるが、月曜は授業があるので日曜には帰らなくてはいけない。月曜日は、休日が多いので授業回数を確保するために、休日にならないときがあるのである。数年前は、月曜日に授業を入れると休日が多くて授業が少ないので、月曜に授業をする教員が多かったが、最近は、前期後期ともきっちり15回授業時間を確保する。むしろ、月曜は休日でも休めないので不人気になりつつあるのである。

 今日会議で補講の話が出た。教員は休んだら補講をしなければならない。補講は土曜日に行うが、学生が土曜にアルバイトで出られなかった場合、その学生の出席日数をどうするのか、アウトなのかという質問があった。土曜にバイトを入れている学生は多いから教員の都合で補講をやってそれに出られない学生を欠席扱いするのは不公平にならないか、というのである。うーんと皆は考え込み答えは出なかった。

 教務課長が、厚労省では、学生が休んだ場合、15回の授業を学生に保証するべきだと言いだしている。どうもそういう時代になってきた、という話をした。厚労省は看護学科や、管理栄養学科、児童学科などの資格系の学部学科を管轄していて、文科省より、授業回数については厳しい。つまり、学生が勝手に欠席しても、教育の質を確保するためにその欠席した学生のために補講をしろというのである。そこまでやらなきゃいかんのかとこれにはさすがに驚いた。ある大学では、ネット上で予習復習できるよう授業資料を公開して、そういう学生の補講にあてているという話である。

 夕方まで会議が連続し、5時半に、寧波大学から宇都宮大学に交換留学していたCさんが尋ねてきた。今日の夕方会おうと約束していたのである。彼女は、宇都宮大学の文学系の学部で2年間在籍して、卒業後、どういうわけか、東大の経済の大学院を受けたのである。最初誰も受かるとは思わなかった。本人も思わなかったらしい。試験には数学がある。ところがである、受かってしまったのである。むろん、相当勉強したらしい。

 寧波大学は、雲南調査でいつも世話になっている張さんが勤めている大学で、3年前に訪れて学生の前で講演をしたことがある。その張先生の教え子で、それで宇都宮でCさんたち寧波大学の留学生と一度食事をしたのが縁である。

 池袋に出て、奥さんと待ち合わせをし、東武のメトロポリタンプラザ8階のイタリア料理屋に入った。食べきれぬ料理を前にして、寧波の葬式の泣き女のこととか、神懸かる占い師のこととか、いろいろ聞いた。寧波にもけっこう面白い民俗が残っているようだ。

 彼女の希望は、修士を出たら日本の企業に入って経済を実地勉強し、上海に戻り起業したいとか。実は、多くの中国の留学生は同じ夢を抱いている。中国では就職するより、自分で起業する方が、リスクはあるが収入は多いし、政府も起業に対してかなりの優遇策をとっているということだ。

 目の前でこんな風に必死に勉強して夢を語る学生を見ると誰だって応援したくなるだろう。残念ながら、こういう中国の若者は今の日本の学生にはいない。寂しいが、中国の勢いというものを感じた晩であった。

        秋の夜や異国の人の夢を聞く

団塊世代の責任2007/09/21 01:14

 今日は出校、雑務である。授業は21日からであるが、私は24日から授業である。学校はまだ閑散としている。隙間読書で、上野千鶴子・三浦展『消費社会から格差社会へ』を読了。けっこう笑える本であった。いろんな流行語やらコピーが出てきて時々ついていけなくなる。「かまやつ女」対「エビちゃんOL」の「かまやつ女」がよくわからなかった。

 主に団塊世代の社会学的観察本といったところだが、こんな日本に誰がしてしまったのか、という問の答えはどうやら団塊世代が背負わねばならぬようだ。

 団塊世代の一人として納得がいかないというわけではない。自分の人生を振り返っても恥ずかしいことばかりやってきたなという気はしている。団塊世代は高度成長の時流に乗っただけなのに、勘違いして、自己実現だとか自分らしさを語り始めたから、子どもの教育に失敗し、次世代をニートやフリーターにしてしまったのだ、という指摘はなるほどと思う。

 確かに今から見ればいろんなことに手を出しながら失敗だらけの世代だった。それは認めるとしても、それなら、成功することってなんだろうかとも思う。成功した世代なんてあるんだろうか。私などは若いとき実際はわけがわからずに生きていたという気がする。親不孝だったが、そうせざるを得ない何かがあった。それが時流だったということかも知れないが、二十そこそこで、得体は知れないが向こう側には何かがありそうだというロマンを知ったら、親や共同体のために地道な生き方をしなきゃとは思わない世代だったのだ。むろん、数としてはそういう地道な生き方を選んだ方が多かったとしてもだ。

 そんなに時代や自分に批判的に生きられるものではない。ましていろんな欲望や野望で身をもてあます歳にである。その無意識で生きたこと自体に責任をとれと言われてもなあ、というところはある。が、現在の過剰な市場原理主義を推し進めたのは確実にわれわれ団塊世代である。何せ競争が身についているし、自己実現という願望をいつも抱えているのもこの世代だからこそ、競争社会としての消費社会を受けいれ、それを楽しんできたのである。

 下流社会や格差社会は、市場経済グローバリズムの一つの帰結であって、何も団塊世代が悪いというわけではないが、自分たちが楽しんできた消費社会のつけを子どもの世代に払わせているという意味では、罪は感じるべきなのだろう。われわれの世代の積極的なエネルギーがはた迷惑な分、子どもの世代はそのエネルギーを持たないことを選んだのだ。たぶんそれでバラスがとれたのだ。

 私は全共闘世代で、学生運動の渦中を生きてその時代が終われば、私の知りあいはろくな就職先もなく、それこそ、格差社会や下流社会の負け組を生きてきた。私だってそうだ。が、誰も負け組などとは思わなかったのは、そういう基準で誰も生きていなかったからだ。

 とりあえず別の基準があって、社会的には負け組でも楽しくやれる関係は築いていた。私はたまたま大学の教員になったけれどこれもたまたまで運が良かっただけである。

 そう考えると、われわれの罪は、人とつながって生きる楽しさを次の世代にうまく伝えられなかったということなのかも知れない。団塊世代への批判にいつもつるんで関係とかなんとか叫んでいる、というのがある(そういう気がするというだけ)。

 確かにそういう面があるが、でもそれって凄く大事だよ、と居直って言えなかったことが、悔やまれることだ。外国の発展途上国は日本なんて比較にならないほどの格差社会だし下流社会もある。が、どこか明るいイメージがあるのは、みんなつるんで生きていて楽しくやっている感じが伝わるからだ。むろん、実際はかなり悲惨であるにしても。

 食えない者同士がつるむのは社会的な本能である。が、日本では食えない者同士が徹底して孤独である。だからアパートの一室で餓死者が出るのだ。そこに社会的な本能が働かないほどに、人間自体が疲弊してしまったのだろうか。人と人とをつなぐいろんなシステムが壊れてしまったということか。

 負け組でいようと、そっちの方が人との繋がりは豊だしというような、社会の柔軟性を作れなかったことは、この社会で一番数の多い世代の人間として、少しは責任を感じなければならないか。 

         獺祭忌悔やむ言の葉ばかりなり

勘違い2007/09/21 23:48

 今日は明日の準備と、ドアの部分をこすってしまって、修理に出していた車が出来上がったので取りに行く。結局修理代は9万円かかった。たぶんそんなに高くはないと思うが、最初からいろいろすれ違いの修理だったので顛末を記しておく。

 去年、私が車をぶつけてやはりドアを傷つけたとき、ディーラーは修理代20万円と言ったが、武蔵村山の奥さんの実家の近くの修理工場で3万円で綺麗になおしてくれた。小さな修理工場で腕の良い年老いた職人が一人でやっている工場である。奥さんの父親は元日産工場の技術者でその時に同じ職場で働いていた人だという。

 そこで、その修理屋さんにまた頼もうと思ったが、領収書ももらっていたなかったので場所はわかるのだが名前がわからない。そこで武蔵村山の実家に尋ねると向こうでもどうやら名前がわからないらしい。父親はもう84歳である。ところが、奥さんの母(同じ歳)がI自動車ではないかと言い、父親はきっとそうだという。そこで奥さんが、場所はわかっているので電話張で調べると確かにそのあたりにI自動車がある。そこで父親に電話してもらった。

 伊奈平のHですが、と電話で言うと、すぐに向こうで、ああ、伊奈平のHさんですね、いつもどうも、と返事が返ってきて、I自動車に間違いない、ということになって、奥さんはそのI自動車に電話で連絡し、去年お世話になったあの職人と思われる人と話をしていついつ車を持っていくから、と約束をしたのである。

 そこで一週間前に、武蔵村山の実家に車を持って行き、父親の車に私が乗って二台で修理工場に向かった。場所はわかっているつもりだった。ところが、道を間違えたのか、どうも見当たらない。そこで車を降りて近くの家でI自動車はどこですか、と聞くと、あそこだと答える。

 どうも知っている場所とは違うのだが、近くは近くなので、行ってみると確かにI自動車とある。私は父親の車に乗って後からついていったのだが、何で奥さんの車が違う修理屋に入るのかいぶかって、おい此処は違うぞと叫んだが、とにかく事務所に行ってみると中に入っていった。事務所から出てきた奥さんは、キツネにつままれた見たいな顔をして、確かに電話で話をしていたのはここだという。でもあの修理工場ではない。人も違う。I自動車修理はやはり小さな修理工場だが、そこの社長らしき人はとても人が良さそうで、私たちが戸惑っているとすごく恐縮して、申し訳なさそうにしている。

 結局、電話で修理を頼んだし約束もしたわけだからというので車を置いて帰ったのである。不思議なのは、最初に電話をしたとき、I自動車修理が何故、ああ伊奈平のHさんですね、と返事をしたかということである。奥さんがI自動車に確かめると、Hさんには車検を出してもらってますよ、と言う。ところが、後で父親に確認すると、車検には別のところに出しているという。そこで、思い当たったのは、伊奈平にはどうももう一人Hさんがいるらしいということだ。時々そのHさんの郵便が間違って届くのだという。I自動車はそのHさんだと思ったのだろうということになった。われわれは別の修理工場だと思い、向こうは向こうで別人と間違えて、交渉をしていたわけである。お互いが勘違いしていたわけで、こういうこともあるのである。

 このままだと気持ちがわるいので、帰りに、去年の修理工場を探したがすぐ近くにあった。I自動車ではなく、Y自動車であった。小さな工場の中ではあのおじさんが汗まみれで働いていた。道に迷わなければこっちに頼むことが出来たのにと、悔やんだが、たぶん、電話で話していた相手は一体誰だと一悶着起きたろう。

 でも、I自動車の人もとても親切で、帰り際に、奥から社長の父親らしい老人が出てきて、小さな箱を抱えている。今朝近くの農家で取れたできたての卵が入っているから、これをもっていけという。けっこうぎっしり入っている。ここいらの修工場人達は腕もいいし人も良いなあと感心しながら帰ってきた。卵は食べきれないので、近所の人に分けてあげた。 

         秋彼岸車に乗せて送りたり

ユタの悲哀の仕事2007/09/23 18:24

 昨日、奈良明日香で科研の研究会。私の発表の番で、「アジアの対唱文化の中の万葉歌」というテーマで話をした。まあまあ何とか責任は果たしたと思う。テーマとしてはけっこう大きいテーマで、掛け合いをアジアの文化という視点で見ようという試みだ。そうすると、例えば折口信夫の来訪神と土地の精霊との掛け合いというモデルはアジアでどこまで通用するのか、問われれることになる。そういう意味では、テーマとしては面白いと思っている。

 京都に泊まり、今日京都から帰る。いつものように何にも見ないでとんぼ返りである。唯一の楽しみは、京都の宿の近くの料理屋で科研のメンバーたちと京料理を食べることだ。つも、東京のメンバーで私Kさん、京都のMさんと、沖縄のKさんである。もう一人外国人の研究者がいるのだが、この人は神戸の方なので帰ってしまう。

 いつもいろろいと話が弾む。今回は沖縄のKさんからユタの話を聞き、なかなか興味深かった。最近、Kさんの甥御さんが海で溺れている人を助けようとして水死するという悲しい出来事があったという。彼の姉の息子さんで、結婚していて子どももいる。その子どもの目の前で起こった出来事であるという。

 彼の死を聞いて家族も親せきもみんな嘆き悲しんだ。妻は、何故その日海に送り出したのかと自分を責め、親は、息子が助けようとした溺れた者が、あんなに浪の強い日に海に入らなければこんなことにはならなかったのだと、息子が助けようとした者を恨む言葉を吐いたという。そん調子で家族も親せきも感情をどうぶつけていいか混乱していた。そこで、ユタに来てもらい、なくなった彼の言葉を聞くことにした。

 ユタは息子の言葉として、「助けられなかったことが悔しい」と語ったそうである。つまり、彼の言葉は助けに海に飛び込んだのにそのことが果たせなかったことが残念だと言ったのである。そこで家族も親せきもみんなハッとした。彼は立派なことをしたのだ、それを誉めてやらなければならないと、その時みんなの雰囲気ががらっと変わったというのである。

 さらに、ユタは、頭から血を流していると、彼の様子を語った。実は、新聞報道では彼は溺死したことになっていた。が本当は彼は荒波にもまれて頭を打ち、それが原因で亡くなっていた。そのことは家族以外には誰も知らない。つまり、ユタは第三者には知らないはずの彼の死の原因を言い当てたのである。それでみんなユタの言葉を信じた。

 Kさんはやはりユタの言葉に驚いたという。フロイトに「悲哀とメランコリー」という論文がある。家族が亡くなったときのこされたものは悲嘆に暮れるが、あるプロセスを通して立ち直っていく。そのプロセス(悲哀の仕事)を踏まないとメランコリーの症状を引きずるというものである。ユタの役割は、まさに、家族が立ち直るために、家族に代わって「悲哀の仕事」を実践したのである。実は、これも、重要なシャーマンの社会的な役割である。イタコが何故現代でも人々に頼られる存在なのか、という答えの一つがここにあるだろう。

      死者の記憶消えて咲くや彼岸花

自己開発トレーニング2007/09/25 00:41

 今日は後期最初の授業。「自己開発トレーニング」という心理学コースの科目で、心理学専門ではない私がやるのは、一番の理由は人がいないからだが、どちらかと言えばワークショップ型の授業なので、私でも出来るのではないかということでで引き受けた。

 自分を分析することはどうして大事なのか、これくらいのことは心理学を専門に学んでなくても語ることはできる。誰だって、心理分析はしている。友達の恋愛相談をした経験は誰にもある。それは個人的なカウンセリングだ。カウンセリングの目的が悩みを聞いて相手を理解し適切なアドバイスを与えることであるとすれば誰だってやっていることだ。

 ただ、プロのカウンセラーとの違いは、相手の悩みをある類型に分類し、その悩みに必要なアドバイスを体系的な知識の中から引き出してくることだ。つまり、個人的な関係ではないところで、同じ相談ができてプロになるというわけだ。その類型化や体系的な知識を学ぶのは他の授業でやることで、この授業では、その基礎を学ぶ。

 個人的な相談だって立派な心理学の実践である。ただ体系的な知識に基づいていないというだけだ。その個人的な相談が出来てしまうのは自己分析を無意識にやっているからである。他者の心なんて誰にもわからない。それでもわかったつもりになって相談にのったりするのはどうして可能なのか。それは、他者の理解の本質が自分を通して理解することだからだ。

 母親は子どもがやけどをしたとき思わずその熱さ自分の身体に感じ取る。それがどのくらい熱いのかわからないのにである。つまり、自分の痛さとしてそれを理解する。心理もそれと同じで、自分の苦しさや悲しさといった心の動きを無意識に相手に投影して、相手の心理を理解しているのである。

 が、それなら自分という一つの心だけでいろんな違いを持った他者の心をどうして理解できるのか、という疑問に突き当たる。それはこう考えればいい。自分の心は一つではないということである。心は実に多様な部分で成り立っている。様々な他者との関係の中で心が作られるからである。

 だから、様々な他者の悩みを聞くとき、相手に応じた自分のなかのある心を適応させてその相手を理解する。そうして、相手の悩みを自分の悩みの投影として理解するというわけだ。とすれば、自己分析とは、一つの自分の発見ではなく、実は、そこにいろろいな自分がいることの発見でもある。つまり、それはある意味では混乱するということだ。

 大事なことは、混乱しながらも、誰もある一つの自分を信じて生きているということである。どうして一つの自分を生きられるのか、それは難しいことだが、誰もがそうやって生きている。自己分析とは、実は、混乱の中で一つの自分を信じていくプロセスの擬似的あるいは意志的な再構成である。それが自己を発見していくということである。そのためにはまず混乱しなくてはいけない。来週から、その混乱が始まるというわけだが、どうなることやら。こっちの思い通りに授業が進むなんてことはまずないので、こっちも混乱である。 

        人どものざわめき超然たる芋虫

ジレンマ2007/09/26 01:38

 火曜はいつも会議の日で、今日も朝から会議の連続である。五時からの会議ではさすがに睡魔と戦うことになった。この会議では、ほとんどが報告であり、ただ聞いているだけで、考えたり発言することもないので、こういう時に眠気を抑えるのは難しい。 

 7時から前短大学長が日本にいるということで、有志と食事会である。前学長は現在フランス住んでいる。奥さんが外国人の画家で、住まいは、かつて藤田嗣治やモジリアニが使ったというアトリエである。本屋で見つけたフランスのモンパルナスを紹介した文庫本に、今住んでいる家の写真が出ていると見せてくれた。

 もう70代半ばを過ぎたお歳だと思うが、とても元気で、日本とヨーロッパを行き来しているようだ。学長の重責から解放されたことが理由なのか、とても楽しそうにしているのが印象的であった。あやかりたいと思う。

 安田喜憲『一神教の闇』を読了。みずからアニミズム原理主義者と名乗るくらい、徹底して、アニミズムの復権を唱える本である。一神教は、力と闘争の原理であり、アニミズムは愛と慈悲の原理だという。いささか単純過ぎるくらいに、反近代、反欧米であるが、これもある種の危機感なのだろうなあと思う。

 資本主義以降の世界のイメージを思想的に構築しえていない以上、どんな原理主義も主張の権利を持っている。アニミズムが思想たりえるかどうかは措くとして、このように原理主義的に語れば何でも思想になり得る。ここでは、アニミズムは、進歩主義的な文明観の反措定であり、その立場から現代社会のいろんな動きを意味づけるのだから、それはそれで立派な思想ではあるだろう。ただ、思想というには無防備で、単純過ぎるというだけである。

 面白いと思うのは、単純に伝統重視や復古主義的ではなく、例えば昆虫や動物といった生物や自然を科学的にとらえてそれを最先端技術で社会に役立てていく、そういう科学文明は肯定するところである。その思考は充分に合理主義的(一神教的)である。

 たぶん私なども安田喜憲とそれほど違わないところで考えているのだと思う。むろん、原理主義者でもないし、一神教はそんなに嫌いではない。ただ、自分には合っていないというだけのことで、私の生活感覚や思想の湿度のようなものは、多神教的だと思う。ただ、何かを考えようとするとき、多神教的な世界から身を離そうとしている。そうしないと思考できない。そのうえで、多神教的世界の優位を、一神教的な論理で語る、ということをやっているわけだ。その意味でそう違わないということである。

 現代の思想は、語りながら語る自分を常に相対化し否定的ポーズを取らなくてはならない。それは、現代の思想が、思想を語る方法と語られる内容の価値とが背反するからだ。別の言い方をすれば、語られる価値によって否定される方法によって語らざるを得ないということである。この矛盾は語る自己を否定するという攻撃に行き着く。私が、安田喜憲や自分の悪口を言うようにである。

 これはジレンマだが、このジレンマを経由しないとたぶん先にはすすめないのではないかという思いはある。それ以上のことは何も言えないけれど。

         名月や幸も不幸もわからない

非常勤ブルース2007/09/28 00:26

 今日は、朝8時に出校。何でこんなに早く来たかというと、昨夜はホテルに泊まったので来れたから。早く来たのは、E君が教員応募のために推薦状がいるというのでそれを書くためである。今日中に渡さないといけなくて、言われたのが昨日で、しかもホテルに泊まったので、朝来て書くしかなかったのだ。推薦状は私もここに就職する時に書いてもらった。人に推薦状を書くとは思わなかったが、役に立てばうれしい。

 今日は1限目の授業がある。「学問への招待」という教養講座の授業で、6人の教員がそれぞれ「家族」というテーマで後期の授業を分担するというもの。みんな専門が違うから、こころみとしては面白い。

 今日は全員揃って顔あわせということで、自己紹介である。ただ、1限目なので学生の数が少ない。これが残念。でも、1限目じゃないと6人の教員が揃える時限は他にないのである。さすがに、朝9時から始まる授業は私などはきつい。私より遠方から通っている先生はもっときつい。この授業の企画をした私は申し訳ないと謝ったが、学生の評判になれば、時間帯も変わるだろうと思う。

 実は、今日は2限目、3限目に授業がはいっていて、昼休みは、学生の「読書室委員」との会議があり、3限が終わるとコースの会議、それが終わると、文科の教授会、それが終わってすぐに短大の教授会、いずれの教授会も議長は私である。終わったのが、6時近く。昼を食べる時間もなく分刻みで働いていた。さすがに最後の教授会では、人の話を聞きながら何とか眠ってはいかんと自分を鼓舞していた。議長が居眠りしたら目も当てられない。

 研究室に中国で買った本が届く。雲南民族博物館の書店で購入したもので、ほぼ一ヶ月かかって着いたということになる。船便だとこれくらいかかる。

 メールを覗いたら、沖縄のユタを研究しているSさんから便りが届いている。彼は、今あちこちの非常勤で宗教人類学の講義をしているが、最近、ギターを教室に持ち込み、ブルースのライブをしているそうだ。彼が作った歌詞は「非常勤ブルース」。
           先生いつも どこにいるんですか
           訊かれるたびに こうかえすんだ
           俺はいつも お前らの目の前だ
           Oh 非常勤ブルース ひとコマなんぼの俺の生活
これをシャウトする。そして、学生にブルースの自詞を作らせ、彼がそれを歌う。それが学生にとって癒しになっているということだ。けっこう人気があるらしい。それはそうだと思う。うちの短大でもやって欲しいが、難しそう。今年カリキュラムの改革で何人かの非常勤先生におやめいただいた。ほんとに「非常勤ブルース」である。

 口承文芸叢書の「ぺー族の歌垣」という原稿の校正原稿を投函し、そのまま新宿へ。梓に乗り、茅野に向かう。9時に茅野に着いた。

 あわただしい一日だった。明日は山小屋で仕事をし、土曜日にまた出校である。当分こんな調子で過ぎていくだろう。

      名月の名残のなかをとぼとぼと

タテマエとホンネ2007/09/30 01:51

 今日は、AO入試の面談で出校。今日あたりからかなり涼しくなってきた。過ごしやすいという点では歓迎である。今年何人かの受験生と面談をしたが、短大を受ける理由に、経済的な事情をあげる志願者が多かった。これは、ここ数年顕著になってきた気がするが、今年は特に多い。兄妹がいるので自分は4大はあきらめたというのである。

 こちらとしても何とか経済的な負担を軽減してやりたいが、なかなかそうもいかない。確かに、授業料は安くはない。社会に出て自分で生活の基盤をしっかりさせてから大学で勉強する手もあるよ、と私は言うことにしている。私がそうだったから。もっとも、私の場合は学生運動で勝手に大学を辞めるという親不孝をしたのだから、あまり人に自慢できる話ではないが。その意味で、自分勝手に生きた私などより、この学生たちははるかに偉いと思う。

 隙間読書が最近隙間で無くなってきて本業がおろそかになりつつあるのだが、加藤典洋『日本の無思想』(平凡社新書)読了。実は、中国寧波大学の張先生のところの日本語を学ぶ学生に日本文化関係の本を送ろうと何冊か探していて、買い求めたうちの一冊がこれだった。送るのが惜しくなって、結局、送らずに自分で読むことにした。どうせ送っても中国の学生には理解が難しいと思う。

 まず戦後日本の「タテマエ」と「ホンネ」の分析から入る。実は、この「タテマエ」と「ホンネ」の使われ方は、戦後になってで戦前では今のようには使われていないという。「タテマエ」と「ホンネ」とは、入れ替え可能であり、「ホンネ」は決して信念や本当の心ではない。それは、ただ表には出せない言葉という程度のことで、そのような言い方が何故、戦後に成立したかというと、敗戦による、絶対的な服従体験があるのではないかと加藤は言う。

 つまり、戦後の日本人は、内の思想を言葉で外に語ることが出来なくなった。どんな立派なことを言っても「タテマエ」と「ホンネ」という枠の中に回収されてしまうという。実は、その淵源は、近代における公私の成立にまで遡る、と論理は展開していく。

 公(公共性)を、ギリシア哲学から俯瞰していく壮大な論理が展開されていくので、途中は割愛。要するに、筆者の言いたいことは、現代において公共性をどう回復するかということであるる。現代において、人は公共性のために生きるべきだ、と誰かが主張すると、「タテマエ」の中に回収されるか、その言説の権威のような立派さに敬遠されるのが落ちだ。

 何故、公共性が思想たり得なくなったのか、それは、公が真の意味での私の上に乗っていないためだというのである。近代以降私は「私利私欲」そのものである。これを否定したり、あるいはそれと関係なく、公共性の理念を打ち立てても、その公は意味を持たない。そうではなく、如何に私利私欲である私のうえに公共性を作るかそれが問題のポイントなのだという。

 私利私欲とは、単なるエゴイズムではなく、人間が生きていくための「生」の本性でもある。生活と言い換えてもいいと思うが、そこから公共性を作り上げなければ、逆の言い方をすれば、生活のにおいを消してただ高潔なところで公共性を作り上げても、それは権力そのものであって、その権力の被支配者には嫌悪されるだけの公共性にすぎないということだ。

 私はこの加藤典洋の考えに納得。こんなに論理的でないし緻密にではないが、私も同じようなことを考えている。

 参考になったのは、折口信夫の来訪神と土地神の対立と服従が、実は、日本の外の権威と日本との関係を象徴するという指摘だ。これは鶴見俊輔の指摘らしいのだが、中国やアメリカという外の権威に日本は、「もどく」という形で対立しそして服従するのだという。つまり、万才芸の「ぼけ」は、外の権威に服従する「われわれ」なのである。

 「もどく」とは相手の言葉をにやや屈折を加えて繰り返すことだが、能面のあの「べしみ」では、さらに服従するこちら側の屈折が言葉にならずに苦渋の表情を通して矯められるのだという。この「べしみ」の表情は、服従する側の「もどき」より、深い内面と相手への抵抗をあらわす。こっちに可能性はあるのだという。

 外の権威への服従のその仕方に中に、思想の可能性のあり方を読み取ろうとする思考は、読んでいて興奮した。そうか少数民族の思想とはこういう風に論じて行けばいいのだと気づかされたからである。隙間のつもりの読書だったが、本業の読書になってしまった。

      秋桜や背の高きから折れていく