文明と文化2007/09/05 01:07

 今日中国から帰国。関空についたとたん暑くてまいった。向こうでは毎日21度くらいの温度で、夕方以降は長袖でないと寒いくらいだった。暑い国に帰ってきたというところだが、むろん、中国でも上海の方はかなり暑いらしい。

 雲南はもう10年以上も通っているところなので、特に驚くことはないのだが、毎年思うのは、中国がどんどん物質的に変化していくということだ。いわゆる欧米型文明を何の迷いもなく受けいれて、物質的に豊になろうとしている。それは涙ぐましいほどである。アジアの文化を研究してる私としては、その発展のスピードに少し待ったをかけたいほどになる。

 文明とは未来に視線が向き過去を向かない。文化とはむしろ過去を向く視線である。発展途上国も、共産主義国家も、いや資本主義国家も、文明が好きで文化を大切にはしなかった。文化は、国家や民族のアイデンティティくらいにしか思っていなかった。

 文明は若者を価値とするが文化は老人を価値とする。老人は未来を知らないが過去を知っているからだ。今、中国で起こっていることは、老人の非価値化であり、若者の価値化である。それは人間の文明化であり文化化ではない。

 雲南省雲龍県の村を訪れ私はたくさんの老人と会った。彼等は、踏葬歌を演じてくれた。村の誰かが死ぬと、村の多くの歌い手達は葬儀の時に手をつないで輪になり、問答形式で歌を歌う。故人の来歴を歌い、遺されたものの悲しみを歌い、あの世に行くための道筋(指路)を歌う。素晴らしい文化である。

 若者の数が少ないのは、都会に出て行ってしまったからだ。この村には、豊かな文化はあるが文明はない。この文化もこの老人たちがいなくなれば滅ぶだろう。そのように感じた。

 誰かがこの老人達の歌の価値を認めてそれを遺さなければ、この村の若者の未来(文明)はきっと空虚なものになるだろう。私の仕事などは、ささやかなものだが、文明に取り残されたような文化の担い手達の価値を記憶にとどめることなのだ、と思う。

 今回の調査も、ほんのちょっとであるにしろ、彼等の価値を記憶にとどめ、その価値を少しでも広めようとするものであった。そう思えば、疲れる思いをして中国調査に行くことに少しは意味もあるというものだ。

 ほとんどバスの移動ばかりでさすがに疲れた。毎年きつくなるのは歳のせいだろうと思う。この調査もいつまで続けられるか。まだまだ調査を待っている文化はたくさんある。調査に行くたびにそれを発見する。今回も、昆明で、神話研究者である李子賢先生から、ワ族の神話を歌う老人がこのままでは絶えてしまう。そうしたらワ族の神話は永遠に消えてしまう。どうか日本の研究者たちに調査してもらい記録してもらえないか。残念ながら中国ではやる人がいないのだと頼まれた。

 実現できるよう努力しますと答えたが、やることがたくさんあることは確かだ。

       雲南や歌を記して夏を終え

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