家持の孤独2007/07/12 01:14

 相変わらず会議の連続で、あっというまに一日が終わる。こんな風にして時間が経っていっていいのだろうかと反省するが、これもまた生活というものの姿なのだ。私の職業は人間相手の職業であって、忙しいということは、それだけ人との関わり合いが多くなるということである。むろん、不特定多数の人と付き合っているわけではないが、それでも、毎日、結構多くの人間と接するのは確かだ。

 あまり人と接するのが得意でない私が何故こんな職業を選んだのかは未だに私にとって運命のいたずらとしか思えないが、そこそこ続けているので、それなりには合っているところもあるのだろう。それなりの適応能力はあるということだ。

 今大伴家持の心の問題を考えているのだが、たぶん、やや自閉的で、優柔不断で、そこそこ真面目で、かなり貴重面であろう。そうでなければ、歌日誌をつけて、膨大な歌の蒐集も出来ない。私はずぼらなので似てはいないが、自閉的で優柔不断というのは似ている。

 家持論のほとんどが彼の孤独ぶりに言及する。確かに孤独と言われれば孤独な歌が多い。が、その孤独さは、神を失ってしまった近代的人間の孤独とは違う。おそらくは、官人 共同体に共通する心情だったのではないか。つまり、官人の情調の共同性とでも言うべきものがあって、家持はその共同性を最も敏感に所有していた、ということではないか。

 越中での「思ふどち」の世界とは、そういった官人の情調の共同性の、発露の場であった。そう思う。それは、父旅人の太宰府での官人たちの共同性とはまた違ったものではないか。都へ戻ってそしてまた地方へと帰ってきた官人を迎える越中の宴の雰囲気は、明らかに慰め合いである。家持の孤独とは、この官人の情調の共同性の一つの表情ではなかったかと思う。最近そんなことを考えている。

     うすものを透かして見るこころかな

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