『蹴りたい背中』を読む2007/04/23 23:34

 今日は体調は最悪。熱もあったがまあいつものことなので出校。雑務と基礎ゼミナールの授業をこなす。基礎ゼミナールは、短大での授業や学校生活での問題点を考えさせるというもので、グループに分けて、それぞれに問題を指摘してもらったが、ほとんどが、学校への改善要求だった。別に不満を聴く授業をしたわけじゃなかったのだが、結果的にそうなったことは、教育環境そのものにいろいろと改善の余地があるということだ。

 それでも、自分たちが勉強している環境の何が問題なのか、それを知ることも大事なことだ。完全な環境など何処にもないが、その不完全さの中で快適に過ごすにはどうしたらいいか、本当はそのように議論を持っていきたかった。次の課題だ。

 綿矢リサの『蹴りたい背中』を読む。ここんとこ最近の芥川賞を読んでいるのだが、評判通り、この小説は面白かった。ディティールへの感覚的執着で文章を作っていくところがあり、二十歳にならないでこれだけの文体を持っているというのはたいしたものだ。

 主人公である高校生の男女は、こういった小説の定番通りに、社会に適応できない人間である。この適応出来なさをどう描くか、ここにその時代を生きる作家の人間を見る力量が問われる。

 お互いに周囲に適合できず閉じられた同士が、閉じられていることへの共感だけを頼りに接近していく。ただそれだけの小説であるが、自閉の中へ意志的に入り込もうするのでもなく、かといって、周囲に無理矢理あわせるのでもなく、それぞれ合わせ鏡みたいな二人が、最初からずれてしまった自分という存在を、どう意志的に受け止められるのか、そういった自分探しみたいな小説である。

 こういうのって分かるよなあ、という気はする。自分を確かめる手だては、周囲とずれてしまうディティールへの研ぎ澄まされた観察である。主人公の女子高生はこの感覚だけが鋭い。そして、この観察への執着が、孤独やあるいは偏執的な世界への傾斜を防いでいる。もう一人の男の子は、この観察する強い意志がないぶん、オタクの世界に過剰にのめり込むことになる。

 主人公の女子高生の苛立ちがよく伝わってくる。その苛立ちは、男の子の背中を蹴るという行為になってあらわれるが、そのちょっとしたサディズムによっても何も変わらない関係や現実の息苦しさは、青春というものがいつも抱え込む息苦しさだろう。

 こういう明るくない青春小説があるということに、少し救われる思いがした。

        春の宵苛立つ人も帰りたり