女子職業学校2007/04/17 00:51

 朝から雨で寒い。こういう日は体調も今ひとつだ。昼頃出校。今年から、わが学校は八王子校舎を引き払い、神田校舎に集中させた。当然、一つの校舎では入りきらないから、いくつかの校舎で分かれて授業する。だから休み時間は移動しなきゃならない。今年から休み時間は20分になった。移動のためである。3号館から本館に来るのに7・8分かかることもある。途中長い信号があるからだ。 

 こういう雨の日は移動も大変だ。むろん、教師もだ。教材抱えて傘持って走るのも楽じゃないだろう。私は、遠い校舎の授業がないのでいいが。実は、あったのだが、けっこう教材を使うのでとてもじゃないが運べないと言って変えてもらったのだ。

 今日の基礎ゼミナールは、大学の歴史を教えた。明治19年に女子職業学校としてスタート。共立という名前は34人の有志によって建てられたからだが、この時代、有志が集まって事業を興したりする時に共立という名前をつけたので、共立という名前は流行ったらしい。

 創立メンバーの一人には、鳩山家の鳩山春子、永井荷風の父もいた。華厳の滝で自殺した藤村操の母親も名前を連ねている。当時のそうそうたるメンバーである。当時は、女性のまっとうな職業はなく、親や夫に不幸があればたちまち路頭に迷った。だから、手に職をつけるような学校を作ろうというのが動機で、他の女学校とは一線を画していた。

 当時の多くの女学校は、「金魚の刺身」と悪口を言われていた。きれいだけど食えないという意味で、社会に出ても職にもつけないことを教えているという意味だ。むろん、当時の女学生の多くは、在学中に見初められて結婚することが多く、その意味では花嫁学校であったのである。女学校の授業参観とは、男の親が参観することで、息子の嫁探しの場だった。そうやって一人抜け二人抜けして、最後に残った女子学生だけが卒業していく。つまり、息子の嫁にと指名されなかった学生達で、世間は彼女たちを「卒業面(づら)」と呼んだ。美人でないという意味がそこに込められている。詳しく知りたい人は、井上章一『美人論』を読むこと。

 共立はそうではなかったらしい。まともに職業教育をしていたらしい。どちらかと言えば今の専門学校みたいなものだったと言ってもよい。当時は裁縫の教育が主だったが、和裁、洋裁が当時の女子の代表的な職業技術だったからだ。だが、ほとんど退学している。これは、家事手伝いや、貧しさのためで、高い学費を払って卒業するまで娘を学校に行かせる親が少なかったということである。

 自分が入った学校がどういうところなのかを学ぶこともいいことではないか。特に女子の職業教育が何故必要とされたのか、そのことを知ることでだけでもいい。当時の女性の置かれた立場を学ぶことになる。一通り説明したあと、それについてどんなことを考えたかグループで話し合わせ、代表が意見を集約して発表をした。見事にみんな同じ感想だったが、それも予想通りで、とりあえずは大事なことは学んだはずなので、よしとしなくては。

 川越に8時に着いた。山から帰ってきた奥さんが迎えに来て、近くのとんでんに行って、夕飯を食べる。私は麦飯とろろ御膳。ここ二日ほど飲み会が続いて、食べ過ぎているので健康志向の夕食にした。

      はなずおう下に乙女の立つ如く