フラガールを観る2007/04/09 00:23

 今日は一日原稿を書いていた。そのせいか、体調がよくない。無理は出来ないのかなあとしみじみと感じた。運動に夕方チビと散歩。新河岸側の菜の花がそろそろ満開である。桜もいいがこの菜の花もいい。

 夜「フラガール」のDVDを観る。なかなか良かった。泣けたし笑えた。ノーメークで出ていた富司純子(藤純子)は歳を取った。こういうストーリーの映画はどこかで観た気がするが、悪くはない。こういうダンスものは映画向きなのだろうなあと思う。

 そう言えばイギリス映画で、失業中の男性達がストリップに挑戦していく映画があって「フルモンティ」という映画だった。これも面白かったし、「リトルダンサー」も良かった。背景はやはり炭坑だ。ダンスに目覚めた少年が炭坑夫の父の反対を押し切ってダンサーを目指す映画だが、どうも、イギリス映画にこの手の傑作は多い。

 「リトルダンサー」の見どころは、最後の場面で、少年が名門ダンスアカデミーの試験で、試験官たちに、ダンスをしているときはどんな気持ちかと聞かれて、突然、自分が自分で無くなる瞬間を比喩的に語るシーンだ。試験官は驚いた表情で聞き入る。

 素人がダンスとかあるいは芸術に様々な困難を克服して成功していくドラマで肝心なのは、こういう、日常を飛び越える瞬間をどのように作れるかだろう。「フラガール」の成功は、最後の踊りの場面が、日常を越えたと思わせたことにあると思う。むろん、蒼井優はもっとうまく踊れたという意見もあるだろうが。

 それから、いかにも泣けるシーンがあって、こういうのはやはり日本だなあとつい感じてしまう。最近、歌の問題で考えているのが、感動と感情の区別である。こういう泣かせる映画での涙は感動なのか感情なのか。実はこれは難しい。

 和歌への批判に、ウエットだとか情緒過ぎるという批判がある。この手の涙ものの映画の批判にもなる。こういう場合、批判は感動ではなく感情に対する批判である。つまり、感動でなく感情だからだめだと批判しているわけである。歌や映画の抒情は感情だからだめだというのだ。なら感動とは何だろう。涙を流したらだめなのか。

 感情と感動の区別は実はそれほど明瞭ではない。特に和歌においてはそうだ。和歌を考える時の大事なポイントだと思う。

      春の夜に夫婦いて映画を観てる

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