縄文語…2007/03/08 00:36

 昨日、今日と出校。昨日は会議日で朝から忙しかった。今日は、午後出校。二部の学生のガイダンスがある。二部は来年度は募集停止なので二年生だけが残る。早めに履修登録をしてもらい、必要なコマ、必要でないコマの見極めを早めにしておこうと、開かれた。

 文科の二部の二年生は全部で30数名ほどである。だが、授業だけは、全員が卒業できるように揃えておかなくてはいけない。たとえ受講生が一人でも授業は行う。そうしないと、留年生が出てしまい二部を廃止出来ないからである。一つの学科を廃止するというのはなかなか大変なのである。

 実は、大学というのはお金がないと倒産出来ないのである。なぜなら、募集停止をしても、学生は残るからであり、例えば四年制大学なら、2年生が卒業するまでの3年間は潰せないのである。その間、教員の給料も払わなければならない。給料が払えないので潰れるのに、3年間払わなきゃいけないのだ。そこで、倒産する大学に文科省が補助金を出すという制度があるのである。きちんと潰れてもらうために補助金を出すというのだ。おかしな話だが、大学とはそういう社会的責任を負っているということである。

 昨日は四時間しか寝ていない。原稿を書いていたためだが、夜中の3時につい松坂のオープン戦中継を見てしまった。それで余計に寝るのが遅くなった。おかげで一日寝不足で調子が悪い。

 それでも、合間に読書。大野晋・金関恕編『考古学・人類学・言語学との対話』を読了。最初は面白くなかったが、アイヌ語の研究者中川裕氏との対話あたりで面白くなった。大野晋は弥生時代にタミル語が日本に入ってきて、縄文語を変化させていったと主張する。

 そこで問題になるのは、縄文語と弥生語(日本語)は連続性があるのか断絶があるのかという問題である。そこで、クローズアップされるのはアイヌ語と日本語との関係である。  

 アイヌ人と縄文人は共通の遺伝子を持つという最近の説から言えば、アイヌ語は縄文語と似ていなくてはならない。とすれば、縄文語と弥生語に連続性がある場合、弥生語とアイヌ語は似ていなくてはならないのに、実際はそうではない。とすれば、縄文語とアイヌ語は関連性がないということなのか、それとも弥生語と縄文語との間に連続性がないということなのか。

 よくわからないという結論だが、問題はやはり縄文語というものがあるとした場合、その言語がどのようなものだっのか分からない、ということに尽きる。縄文時代の言葉とはいったいどういうものだったのか。神話も歌も確実にあったはずだ。興味を掻きたてられた。

     水温む朝言の葉も軽やかに