新年会と音数律2007/01/14 01:39

 忙しい一日だった。まず午前中に、今日上代文学会の例会で発表予定のS氏とそれからアジア民族文化学会のK氏とE氏と、秋のアジア民族文化学会の企画についてわたしの勤め先の部屋で打ち合わせ。K氏は、JRが人身事故で遅れが出ているとかでなかなかこない。

 やっと揃って、秋の大会について話し合った 。秋は企画ものなので、私の提案で「アジアの歌の音数律」というテーマでやろうということになっている。今日の上代のS氏の発表も、日本の歌の定型の成立についての発表で、音数律にこだわったものだ。とにかく、アジアの詩や歌はほぼ共通して5音・7音である。それは何故なのだろう。そこにどういう共通性があるのか、考え始めようという企画だ。

 何とか企画がまとまって、一時には、私は勤め先の新年会で東京ドームホテルに向かい、他は上代の例会(慶応)に向かった。私の勤め先からは、新年会の会場も、上代の会場も三田線で一本である。私は、新年会が終わったら例会に行く予定である。

 新年会はたぶん立食形式だから、ちょっと顔を出して早めに退散しようと思っていた。だからラフな服装をしていったのだが、自分が管理職であることを忘れていた。まず新年会は、全員テーブル席のコース料理つき。私は、いきなり、胸に赤いリボンをつけられ、数百人いる大きな会場の来賓席に座らされた。さらには、壇上に並ばされ、しかも、はっぴを着せられ樽酒の鏡割りまでさせられた。くそ、こんなだと知ってたらもっとフォーマルな格好をしていったのにと悔やんだが、まあよくあることだ。卒業生や後援会の人たちがほとんどの新年会だったが、けっこう金がかかってんだろうなあ、などと思いながら、料理を平らげた。明後日は人間ドックなのだが、これじゃコレステロールの値はあがるだろうな、などと考えながら。

 3時半に新年会が終わり、慶応に向かった。4時ちょつと過ぎに着いたが、S氏の発表はまだ続いていた。発表の後質問があり、あの「万葉集の発明」の著者が真っ先に手をあげ、論理がおかしいと真っ向から反論する質問をした。S氏は、記紀歌謡の5音・7音の音数律が整えられていくのは、歌が音楽性を失っていって、声でヨムものになっていくからだと論を展開したがそれに噛みついたのだ。その理由としてソシュールを持ち出した。つまり、声という音声は、音を文節化して記号としての言葉を作っていくシニファンの働きに過ぎない。声とはただそれだけのものなのに、それが5音・7音の定型を作るというのは、S氏の言う声は、言語としての声ではない、という反論である。つまり、たかだか差異を生み出すものでしかない言語の音声に定型のような音数律を作る働きはない。だから、音楽性を失って、ヨムものになっていく時に定型が成立するという論理が間違いだというのである。

 たぶん、批判する彼の論理をこのように理解出来たのは、あの場で私だけだったのではいなかと思う。ほとんどのものは何を批判しているのかよく分からないようだった。私は、この批判は一理あるなと思った。ただ、ソシュールの論理を型どおりに利用して、つまり、批判のための批判として使っているなという気もした。

 音楽性を失って声でヨムものになっていったからと言って、その声が、所謂言語一般の音声になったわけではない。批判はそこを無視して、あえて言語一般の音声のことを言っているからおかしいといちゃもんをつけたのだが、S氏のヨムは、音楽性をまったく失ったわけではない。呪文を唱えたり、語ったりするような声の問題を言っているのは明らかだ。つまり、声がただ差異を生み出すものではなく、その声の抑揚や拍子自体がシニフェに影響を与える表情を持つという、問題を語っているのだ。だからこそ、面白いのであって、ソシュールの理論をそのまま型どおりに当てはめて批判するのは、S氏の提起した問題の面白さが分かっていないのである。あるいはそれを面白がろうとしていない。

 が、はからずも、この批判は、S氏の発表が、ソシュールでは説明できないような問題を扱っているのではないか、というように思わせてくれたという意味で貴重であった。そうなのだ。しゃべるときには誰もがそれぞれの拍子を持つ。それは、音声言語としては当たり前で、その拍子や抑揚の個性が、その言語としての基本的な原理を逸脱させたりすることはない。多少聞きづらくても意味は分かる、というような問題に過ぎない。

 が、その拍子や抑揚の個性そのものが音楽とまではいかなくても、自己表出性、つまり、それ自体に何らかの意味性を感じて自己目的化した場合、それは、意味の把握にとってただの個性であったり障害といったものではなくなる。そうすると、そのような拍子や抑揚は、ある法則性を指向し始めるだろう。それが音数律であり、その音数律が自己目的化していくことで、やがて、共通の形式が生まれてくる。それが定型ということになろうか。 
 つまり、定型とは、音楽と、ただの個性的な声の調子との中間の段階で成立したということだ。そのことが大事なのではないかと、発表を聞きながら、私などは考えた。

 とにかく、なかなか面白い発表であった。少なくとも私は面白がって聞いた。会が終わって久しぶりにあったGさんら5人と慶応近くの割烹料理屋で鍋を囲む。なかなか感じのいい店であった。

    冬旱の夕になりて鍋囲む

    外冬旱なれども論熱くなり

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