外部の語り方2006/12/10 00:52

 今日は一日雨。普通なら雪になる季節だが、暖冬なのか雨である。昨日の夜中、別荘地の中の道路を走っていたら、道路を見下ろす繁みから鹿が十頭近く並んでこちらを見ていた。ライトで目が光ってなかなかシュールな光景であった。

 今日は一日本を読む予定であったが、なかなか手につかない。散歩して、買い物に出て、昼を食べて、温泉に行ってと、だらだらと一日を過ごす。読みかけの『中国の鬼』の主要な部分は読んだが、あまり面白くなかった。少数民族の鬼観念を、全て、無知であるとか生産性が低い段階とか、そういう唯物史観的段階論であっさり語るところが、いかにも中国の論という感じだ。

 最近の和歌関係の論文をいくつか読んだが、いずれの論も和歌の表現を論じている。当たり前だが、どうも限界があるのではないかと感じる。歌の言葉は、外部にその端がはみ出しているようなところがあり、境界の不分明さをどう語るかが、たぶん、今の和歌論には必要なのではないかと思う。

 テキストの「表現」に外部はなく、テキストの「表現」が外部を作り出すといった最近の表現唯一主義は、ある意味で自分がいるから世界が存在するのだといったジコチュー的思考であろう。誰もが自己の存在を中心に置けないように、「表現」は中心に置けない。とすれば、「表現」はその不完全さゆえに外部にさらされているはずで、ただ、アプリオリに外部があるというと、何やら二元論ぽくなるが、自己の不完全さの向こう側をどう語るかぐらいのこととして外部を考えればいいだろう。

 たとえば古代文学研究の領域で使われた「呪性」というタームは、「表現」の不完全さの向こう側を語ろうとする言葉だったが、今はあんまり使わなくなった。「表現」唯一主義に負けてしまったからだ。

 和歌を語る時に付随する、音の問題も、場の問題も、あるいは、言語そのものの問題も、実は外部に開いてしまっている問題である。とすれば、もっと大胆に、「表現」の不完全さを認識して、外部にせり出している領域をどう語るのか、というように論を展開していかないと、表現の中の違和を表現の中でこねくりまわしているだけの論に終始してしまう。どの論も楽しく論じていないのはそのためだろう。かといって私に楽しく論じられるのか、というと論じられない。私は、少数民族の歌垣ばかりやっていて、つまり外部ばかりやっているから、どうも和歌の表現に降りたって、そこから論じることができないからだ。
だから、この感想は、やや無責任なところがあることを断っておく。

      黙しおれば寒禽も啼かずあらわれず

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