悲しき身体2006/12/01 22:42

 今日は研究日にしているので用が無い限りは学校へ行かない。もっとも山小屋に来てしまっているが。でも仕事があれば行かなきゃいけない。いずれにしろ明日は学会の例会だから神楽坂まで出かける。10月と11月はほぼ毎週週末は山小屋だが、ほとんど土曜か日曜は仕事やら学会やらで東京に戻っている。ゆっくりした週末を送ったことがない。それまでして何故山小屋に行くのかというと、どっちかというと山小屋が自宅だと思っているからだ。空気もいいし、温泉もある。なるべくならこっちから通勤したいくらいだ。むろんそうはいかないが。

 今朝から足が痛む。通風かも知れない。ただ、いつもと痛み方が違うのでたんなる関節炎かも知れない。この歳になるといつも身体のどこかが悪くなる。

 さすがに寒くなってきた。八ヶ岳の山頂もすっかり白くなってきた。冬日和の時は山裾は霞んだりするが、天気が冬型になるとさすがに雲が山頂を覆い、風下の方に吹き流されんばかりに細長く伸びている。山もすっかり枯れ木の賑わいといったところだ。今日は、道路から山小屋へ降りるアプローチがだいぶひどくなってきたので階段状に整地するために、ホームセンターに横木を買いに行く。チビの散歩をして、温泉に行って、それでとりあえず一日は終わってしまった。夜に来週の授業の準備と、「抒情」について考えをまとめることをしなきゃいけない。

 言葉が身体を表現し始めたときが「抒情」の始まりではないかと考えている。この場合の身体とは、統御出来ない身体あるいは異界へつながるような自然としての身体のことである。別な言い方をすれば「抒情」の表現とは、「情」という身体性を介した自己表出(価値もしくは美としての表出)と言えばいいか。

 たとえば、「悲し」という身体性を介した表現が、統御できない、向こう側の世界へ通じる何かを抱え込むように感受されるレベルを言葉が獲得したとき、「悲し」は「抒情」表現になったと言えるのではないか。それが万葉集における「悲し」の成立だと考えている。いろいろ考えてきてこんな風にまとまったが、問題はここからだ。この思いつきで二、三本論文を書かなきゃたんなる思いつきで終わっちゃう。論文書く暇はなさそうだから、忘れないようにとりあえずここに書き留めておくというわけだ。

    春までは冬木のように立ち尽くす

    冬霞鋭き峰も靴を脱ぎ

   冬の朝「悲しき」身体痛みだし

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