うっすらと雪 ― 2006/11/12 23:51
朝6時に起きて7時19分の梓に乗る。新宿着9時24分。これだと学校へ10時には間に合う。きついようだが、駅までは奥さんに車で送ってもらうし、梓では2時間よく眠れるし、川越から通うよりは楽である。実際川越と一時間程度の違いしかない。問題は交通費と、朝9時までに着く梓がないことだ。軽井沢だと新幹線があるので軽井沢から一時間で東京。本数も多いので9時までに東京に着くことができる。だから、軽井沢から通勤している人が多い。ところが、中央線は時間がかかるし本数も少ないので通勤は難しい。だから、定住していても別荘には週末のみ帰る人が多い。私は定住ではないが、年の三分の一は山小屋暮らしなのでそれに近い。金曜の新宿発最終の梓は、けっこうそういう人で混雑する。
朝うっすらと雪が積もっていた。さすがに冬になってきた。今頃は唐松の黄色くなった紅葉がきれいだ。紅葉や満点星もまだ紅く残っているのもある。
今日は一日推薦入試である。来週の日曜もそうだ。どの大学・短大でもそうだが、生き残りをかけて優秀な学生を入れようと必死だ。そのためにはハードルを高くしたい。だが、高くすると受験生が減り定員割れを起こしかねない。一流校ではない大学・短大の抱えているジレンマである。われわれも例外ではないが、今のところ、ハードルを低くしないで何とか定員を保っている。この調子でいきたい、これは最近責任ある立場になった私の職業上の願望である。
家に帰り(奥さんは明日帰ってくるので一人)、映画を観て、短歌時評のための歌集を再読。DVDはリュックベッソンの「アンジェラ」。まあまあ面白かった。現代の街に天使が降りてくるというパターンのものだが、天使に救われるアルジェリア系の冴えない男の描き方とエスプリの効いたセリフはさすがにフランス映画だ。
最近いい映画の新作がなかなかない。最近観た中で面白かったDVDは「ウォークザライン」。アメリカのロック歌手ジョニーキャッシュの伝記映画だが、これはけっこうよかった。暇をみてはなるべくたくさん観たいのだが、なかなか時間がないのと、疲れているので、どうしても疲れない考えない映画を借りてきてしまう。だからいい映画をたくさん見逃している。いい本もまた読まないでいる。
冬に入り昨日の我を仕舞いけり
冬めきて手つかずの刻重くなる
朝うっすらと雪が積もっていた。さすがに冬になってきた。今頃は唐松の黄色くなった紅葉がきれいだ。紅葉や満点星もまだ紅く残っているのもある。
今日は一日推薦入試である。来週の日曜もそうだ。どの大学・短大でもそうだが、生き残りをかけて優秀な学生を入れようと必死だ。そのためにはハードルを高くしたい。だが、高くすると受験生が減り定員割れを起こしかねない。一流校ではない大学・短大の抱えているジレンマである。われわれも例外ではないが、今のところ、ハードルを低くしないで何とか定員を保っている。この調子でいきたい、これは最近責任ある立場になった私の職業上の願望である。
家に帰り(奥さんは明日帰ってくるので一人)、映画を観て、短歌時評のための歌集を再読。DVDはリュックベッソンの「アンジェラ」。まあまあ面白かった。現代の街に天使が降りてくるというパターンのものだが、天使に救われるアルジェリア系の冴えない男の描き方とエスプリの効いたセリフはさすがにフランス映画だ。
最近いい映画の新作がなかなかない。最近観た中で面白かったDVDは「ウォークザライン」。アメリカのロック歌手ジョニーキャッシュの伝記映画だが、これはけっこうよかった。暇をみてはなるべくたくさん観たいのだが、なかなか時間がないのと、疲れているので、どうしても疲れない考えない映画を借りてきてしまう。だからいい映画をたくさん見逃している。いい本もまた読まないでいる。
冬に入り昨日の我を仕舞いけり
冬めきて手つかずの刻重くなる
アサーションスキル ― 2006/11/14 00:29
午前中に学校へ。今日は雑務だけ。大した雑務ではないのだが、やはり私がいないと片付かないこともある。つまり組織というのは、組織を維持するためだけの存在が必要で、たとえその人がはんこを押すだけであっても必要になる。むろん、競争原理の浸透した昨今そんなに甘くはないのだが、それでも、そういう人はいる。私がそうだというわけではないが。
午後は早めに切り上げ、夕方、車のタイヤをノーマルからスタッドレスに付け替えた。近くのオートバックスに行ったのだが、混雑していて一時間ほどかかる。去年油断して12月になってもノーマルにしていたら、12月2日頃に山小屋では大雪になり、奥さんが閉じこめられ帰れなくなった。暖冬傾向だが、太平洋側に属す八ヶ岳あたりは、太平洋側の春のどか雪が12月頃から降るようになり、かえって大雪になり始めたのである。これも我が家の冬支度である。
今日、心理学関係の本を一冊読む。といっても入門書の類なので、あっという間に読んでしまった。「アサーションスキル」とか「アサーショントレーニング」といわれるもので、来年から始まる心理学コースのために読んでいる。なんで私が読むかというと、実は、心理学の基礎的なトレーニングゼミを私が受け持つからだ。むろん私でも受け持てる、マニュアル通りに進める授業なのだが、それでも知識は必要で、ここのところ入門書を何冊か読んでいる。「アサーション」とは自己表現のことで、アメリカの行動療法の治療マニュアルが、現代人のコミュニケーションスキルとして一般化されたものらしい。要するに、自分の意見を相手にどう伝えるのか、というスキルを心理的な分析を加えながら解説しマニュアル化したもので、自分を偽るなとか相手の心を推し量れとか実に当たり前のことを真面目にマニュアル化するものだから、時々読んでいてばからしくなる。これではいけないのだが。
今日12チャンネルの村上龍の番組でブランドもののバッグを売り出して成功したカリスマ的若き社長が、部下に信頼される秘訣は何かと質問され、嘘をつかないことだと言っていた。つまり、言っていることと心とが違うという印象を相手に持たせたらもうだめだということで、実にシンプルだがこれが大切だと語っていた。当たり前だが案外に難しい。この人は立派な「アサーションスキル」を持っているというわけだ。ちなみに、私も言っていることと心とはそんなに違わないつもりだが、信頼されているとは思わない。スキルではどうしようもないことが世の中にいくらでもある。
冬用のタイヤを履いて空を見る
冬暖か人の心も推し量れず
午後は早めに切り上げ、夕方、車のタイヤをノーマルからスタッドレスに付け替えた。近くのオートバックスに行ったのだが、混雑していて一時間ほどかかる。去年油断して12月になってもノーマルにしていたら、12月2日頃に山小屋では大雪になり、奥さんが閉じこめられ帰れなくなった。暖冬傾向だが、太平洋側に属す八ヶ岳あたりは、太平洋側の春のどか雪が12月頃から降るようになり、かえって大雪になり始めたのである。これも我が家の冬支度である。
今日、心理学関係の本を一冊読む。といっても入門書の類なので、あっという間に読んでしまった。「アサーションスキル」とか「アサーショントレーニング」といわれるもので、来年から始まる心理学コースのために読んでいる。なんで私が読むかというと、実は、心理学の基礎的なトレーニングゼミを私が受け持つからだ。むろん私でも受け持てる、マニュアル通りに進める授業なのだが、それでも知識は必要で、ここのところ入門書を何冊か読んでいる。「アサーション」とは自己表現のことで、アメリカの行動療法の治療マニュアルが、現代人のコミュニケーションスキルとして一般化されたものらしい。要するに、自分の意見を相手にどう伝えるのか、というスキルを心理的な分析を加えながら解説しマニュアル化したもので、自分を偽るなとか相手の心を推し量れとか実に当たり前のことを真面目にマニュアル化するものだから、時々読んでいてばからしくなる。これではいけないのだが。
今日12チャンネルの村上龍の番組でブランドもののバッグを売り出して成功したカリスマ的若き社長が、部下に信頼される秘訣は何かと質問され、嘘をつかないことだと言っていた。つまり、言っていることと心とが違うという印象を相手に持たせたらもうだめだということで、実にシンプルだがこれが大切だと語っていた。当たり前だが案外に難しい。この人は立派な「アサーションスキル」を持っているというわけだ。ちなみに、私も言っていることと心とはそんなに違わないつもりだが、信頼されているとは思わない。スキルではどうしようもないことが世の中にいくらでもある。
冬用のタイヤを履いて空を見る
冬暖か人の心も推し量れず
荒ぶる抒情 ― 2006/11/15 00:30
いつもだが今日も疲れた。朝から会議で、いろいろと問題も出てきて、それらを一つ一つ解決していかなきゃならないので、世の中甘くはないね。
だれも好きなことをして生きていたいだろうが、そうは問屋が卸してくれない(こういう言い方ってまだあるのかなぁ)。
といって沈んでいても原稿は待ってくれない。夜に「月光」の短歌時評を書き出してなんとか脱稿。加藤英彦歌集『スサノオの泣き虫』10枚ばかりの時評だった。何とか締め切りに間に合った。メールで送って一段落。
「荒ぶる抒情」というタイトル。最近「抒情」にこだわつているのでそれに引きつけて論じた。要するに、斎藤茂吉や前衛歌人達の何というか暗い感情の鬱積した歌の系譜にあるという論旨。こういう荒ぶる抒情の系譜を、古代に探すのも面白いかなと考えた。それが収穫であった。
冬めきて荒ぶる抒情一休み
木枯らしも後ずさりする抒情かな
だれも好きなことをして生きていたいだろうが、そうは問屋が卸してくれない(こういう言い方ってまだあるのかなぁ)。
といって沈んでいても原稿は待ってくれない。夜に「月光」の短歌時評を書き出してなんとか脱稿。加藤英彦歌集『スサノオの泣き虫』10枚ばかりの時評だった。何とか締め切りに間に合った。メールで送って一段落。
「荒ぶる抒情」というタイトル。最近「抒情」にこだわつているのでそれに引きつけて論じた。要するに、斎藤茂吉や前衛歌人達の何というか暗い感情の鬱積した歌の系譜にあるという論旨。こういう荒ぶる抒情の系譜を、古代に探すのも面白いかなと考えた。それが収穫であった。
冬めきて荒ぶる抒情一休み
木枯らしも後ずさりする抒情かな
津波と自然 ― 2006/11/16 00:54
帰ると津波の情報でどのチャンネルにも日本地図が写っている。津波もまた自然というものの当たり前の姿だ。
今日、「地域文化論」で、怒江流域に住む人々の過酷な生活とそのくったくのない生き方を紹介しながら、人と自然との関係には二つあると語った。一つは、どんなに厳しい自然であってもその自然に従い、その上で豊かさを考えるというもの。もう一つは、自然を選択し人間中心に作り変えるというもの。二つとも、人間にとっての本質であって、どっちがいいという問題ではないが、怒江流域が前者の関わり方において突出しているとすれば、われわれは後者の関わり方において突出している。
この二つがアンバランスであることは幸せなこととは言えないのではないか、というようなことを語った。
怒江流域に住む、リス族やトゥールン族は、欲望を抑えて生きている。それが過酷な環境で生きる知恵であるからだ。われわれは、欲望を持てば眼前の課題は克服できるだろうにと思うが、実は、外部からの投資なしではそれは無理である。
後者の自然への関わり方というのは、ある地域の内部だけでは不可能である。外部との様々な交換があってこそ、つまり、外部の眼にさらされることを通して欲望は開発され、外部によって内部の自然は新しい価値に変換される。そういう契機がなければ、欲望がその欲望の属する環境の与える負荷を克服していくということはあり得ない。
従って、リス族やトゥールン族の問題とは、彼等が外部に関心を持たれない、ということにある。何故持たれないかというと、資源を持たないからである。こういう、外部から関心を持たれない地域に住む人々は、たぶん世界の7・8割になるだろう。それは世界の貧困層の数である。
世界の圧倒的な人々は前者のような関わり方で生きている。自然を選べずにその自然に従うしかないのだ。
われわれが老いていく身体という自然をそのまま受け容れざるをえないように受けいれているのである。
がだから不幸なのだということではない。これは幸不幸の問題ではない。
ただ、後者の側に生きているわれわれも、前者のような関わり方をしているし、逃れられないということを知ることだ。死から逃れられないようにである。
欲望を抑えしままの柿日和
柿熟す老いゆくことも考えず
今日、「地域文化論」で、怒江流域に住む人々の過酷な生活とそのくったくのない生き方を紹介しながら、人と自然との関係には二つあると語った。一つは、どんなに厳しい自然であってもその自然に従い、その上で豊かさを考えるというもの。もう一つは、自然を選択し人間中心に作り変えるというもの。二つとも、人間にとっての本質であって、どっちがいいという問題ではないが、怒江流域が前者の関わり方において突出しているとすれば、われわれは後者の関わり方において突出している。
この二つがアンバランスであることは幸せなこととは言えないのではないか、というようなことを語った。
怒江流域に住む、リス族やトゥールン族は、欲望を抑えて生きている。それが過酷な環境で生きる知恵であるからだ。われわれは、欲望を持てば眼前の課題は克服できるだろうにと思うが、実は、外部からの投資なしではそれは無理である。
後者の自然への関わり方というのは、ある地域の内部だけでは不可能である。外部との様々な交換があってこそ、つまり、外部の眼にさらされることを通して欲望は開発され、外部によって内部の自然は新しい価値に変換される。そういう契機がなければ、欲望がその欲望の属する環境の与える負荷を克服していくということはあり得ない。
従って、リス族やトゥールン族の問題とは、彼等が外部に関心を持たれない、ということにある。何故持たれないかというと、資源を持たないからである。こういう、外部から関心を持たれない地域に住む人々は、たぶん世界の7・8割になるだろう。それは世界の貧困層の数である。
世界の圧倒的な人々は前者のような関わり方で生きている。自然を選べずにその自然に従うしかないのだ。
われわれが老いていく身体という自然をそのまま受け容れざるをえないように受けいれているのである。
がだから不幸なのだということではない。これは幸不幸の問題ではない。
ただ、後者の側に生きているわれわれも、前者のような関わり方をしているし、逃れられないということを知ることだ。死から逃れられないようにである。
欲望を抑えしままの柿日和
柿熟す老いゆくことも考えず
雪のくだけし ― 2006/11/17 00:50
今日も、学校から中央高速で山小屋へ行く。7時に出て、途中談合坂で夕飯を食べ10時に着く。川越に帰ると夕飯を食べてだと9時にはなるから一時間余分にかかったことになる。1
時間しか違わない。今日から冬型さすがに寒い。部屋の中は6度である。それでも例年よりは暖かい。薪ストーブを焚くと部屋の中はいっぺんに暖かくなる。
部屋にはいるとチビが少し興奮する。こっちはいろんな獣のにおいがするので、猟犬の血が騒ぐのかも知れない。体は小さいがチビは一応柴犬だから猟犬の血を持っているのだ。
ナナはからかったりするとのってきて遊んでくれたが、チビはまだそこまでいかない。チビと一緒に騒ぐとチビは驚いて後ずさりして逃げ出す。人間と一緒にあそぶことにまだ慣れていないのだ。そこが寂しいところだ。
中国では狂犬病の取り締まりで当局がかなり犬を始末したらしく、ペット愛好家がでデモ騒ぎを起こしたという。特に雲南ではだいぶ犬を処分したらしい。雲南に調査に行くと、村では犬が放し飼いだから時には恐い時がある。かまれたという話もよく聞く。狂犬病は確かに恐い。でもだいたい少数民族が飼っている犬はおとなしく外来の客に無関心でいつも寝そべっていた。村の一員としてそれなりの役割を持って存在しているようだった。やはり都会で中途半端に飼っている犬が問題なのだろう。もともと犬の肉を食べる文化を持つ国だから、犬はペットではなく家畜という意識がまだ残っている。それに中国は何かを決めたら徹底してやるところだから、かなりの犬が殺されたんだろうなあと思う。中国人がデモをするくらいだから相当だったのだろう。中国の犬に同情する。
正岡子規の歌集と万葉集を少し読む。万葉集104の藤原夫人の歌「わが岡のおかみに言ひてふらしめし雪のくだけしそこにちりけむ」はけっこういい歌であることを発見。天武天皇の「わが里に大雪ふれり~」への返歌だが、「雪のくだけし」はなかなか言えるものではない。文字通りとれば神が降らした雪崩のような雪ということになる。くだける雪とはとにかくすさまじい雪であることは確かだ。考えようによっては恐い歌だ。
まだ11月だが、大雪のつもりで
雪は砕け女は男を待ちにけり
犬を喰う海の向こうも冬にいる
おかんばばあ ― 2006/11/17 23:40
チビはどういうわけか掃除機が嫌いだ。掃除機をかけると獲物に飛びつくように吠え始める。どうしてなのかわからない。音に反応するのだろうか。
今日散歩から戻るとリスが落葉の上をささっと走った。チビが追いかける。リスはベランダの下の物置の屋根の上を駆け抜けそのままどこかに消えていった。リスも冬支度で忙しそうだ。今年は、どういうわけかドングリが少ない。リスの食糧確保が心配だ。今日の散歩は車山のペンション村まで足をのばしたが、近くのカシガリ山で熊が出たという話を聞いた。カシガリ山は山小屋の正面に見える山。本当ならわれわれの別荘地に降りてきてもおかしくはない。熊も冬をこすのが大変そうだ。
八ヶ岳の赤岳や阿弥陀の山頂が白くなった。蓼科の上部は雪というより霧氷で白く見える。カメラを首からぶらさげて歩いていたら突然気分が悪くなった。どうやら持病の首の頸骨が痛み始めたようだ。パソコンで原稿などを書いていると首が前に下がりむち打ちと同じ症状になる。一度レントゲンを撮ったら首の頸骨の一つがちよっとずれていると言われた。その症状が出ると突然吐き気がして首が動かなくなる。カメラを首からぶら下げたのがいけなかった。が、今回は軽い症状で、しばらく休んでいると何とか回復した。私の身体もかなりがたがきている。
塩壺の湯に行き、帰りに別荘の入り口にあるレストラン「ラーチ」によってビールを飲む。ここのマスターとはだいぶ親しくしている。別荘地の山を財産区として持っている柏原村の話になった。マスターは歴史好きでパソコンにこのあたりの由来を書いた文書を入れてあって、それを見せてくれた。その柏原村の歴史に「おかんばぱあ」という話が載っていた。ある百姓の娘が野良仕事をしていたら行方不明になり、何十年もたって車山のあたりでばあさんになっているのを見かけたという話である。名前が「おはん」でそれが「おかん」となったらしい。江戸時代のことであるという。「遠野物語」の「サムトの婆」の話と同じである。どうやら、山里の村にはこういう話が各地に残されているらしい。面白かった。
気がつけば栗鼠も御山も冬支度
山に消ゆ寒戸の婆も冬支度
首を垂れ黙したままで冬に入る
今日散歩から戻るとリスが落葉の上をささっと走った。チビが追いかける。リスはベランダの下の物置の屋根の上を駆け抜けそのままどこかに消えていった。リスも冬支度で忙しそうだ。今年は、どういうわけかドングリが少ない。リスの食糧確保が心配だ。今日の散歩は車山のペンション村まで足をのばしたが、近くのカシガリ山で熊が出たという話を聞いた。カシガリ山は山小屋の正面に見える山。本当ならわれわれの別荘地に降りてきてもおかしくはない。熊も冬をこすのが大変そうだ。
八ヶ岳の赤岳や阿弥陀の山頂が白くなった。蓼科の上部は雪というより霧氷で白く見える。カメラを首からぶらさげて歩いていたら突然気分が悪くなった。どうやら持病の首の頸骨が痛み始めたようだ。パソコンで原稿などを書いていると首が前に下がりむち打ちと同じ症状になる。一度レントゲンを撮ったら首の頸骨の一つがちよっとずれていると言われた。その症状が出ると突然吐き気がして首が動かなくなる。カメラを首からぶら下げたのがいけなかった。が、今回は軽い症状で、しばらく休んでいると何とか回復した。私の身体もかなりがたがきている。
塩壺の湯に行き、帰りに別荘の入り口にあるレストラン「ラーチ」によってビールを飲む。ここのマスターとはだいぶ親しくしている。別荘地の山を財産区として持っている柏原村の話になった。マスターは歴史好きでパソコンにこのあたりの由来を書いた文書を入れてあって、それを見せてくれた。その柏原村の歴史に「おかんばぱあ」という話が載っていた。ある百姓の娘が野良仕事をしていたら行方不明になり、何十年もたって車山のあたりでばあさんになっているのを見かけたという話である。名前が「おはん」でそれが「おかん」となったらしい。江戸時代のことであるという。「遠野物語」の「サムトの婆」の話と同じである。どうやら、山里の村にはこういう話が各地に残されているらしい。面白かった。
気がつけば栗鼠も御山も冬支度
山に消ゆ寒戸の婆も冬支度
首を垂れ黙したままで冬に入る
林檎は不作 ― 2006/11/19 00:21
今日は忙しかった。朝8時に畑でいつも世話になっているKさんが軽トラに薪をいっぱいに積んで持ってきた。かなり乾燥している薪でやや大きめだがいますぐにでも燃やせそうである。この薪は処分するものだからお金はいらないという。それでは悪いからということでガソリン代として何とか千円受け取ってもらった。
9時に望月の方のリンゴ園に林檎の収穫に出かけた。一本の林檎の樹のオーナーになっていて、その樹の林檎はオーナーのものになる。一万円で権利を買う。去年は300個以上の林檎がとれた。安いものである。ただし、林檎はそんなに食べないけれど。ところが、今年選んだ樹は林檎の粒が小さく紅くもない。量も少ない。どうやら外れの木を選んでしまったらしい。毎年木を選ぶとき、まだ実をつけていない早い時期にどの樹がたくさん獲れるか選ぶのだがなかなか難しい。隣の樹はとても立派な林檎がたくさんなっているというのに、こっちはみすぼらしい。まあこういう外れがないと林檎農家も儲からないというわけだ。とりあえず紅いのを百個ばかり収穫して帰った。
午後は、朝持ってきてもらって道路脇に積んである薪を運ぶ作業。明日は雨か雪だから、とにかく屋根のあるところに運ばなくてはならない。何とか三分の二ほど運んで後はビニールシートをかぶせておいた。疲れた。
夕6時半に茅野駅へ。7時の梓で川越の家に戻るのだ。車中で正岡子規の歌集を読んでいたら突然気分が悪くなり吐き気を催す。どうやらまた首の持病がでたらしい。本を読むとき下を向くがその微妙な角度がだめらしい。疲れも出ているのだろう。新宿につき、池袋で東武東上線に乗り換える。朝霞台で電車がストップ。誰かが線路に落ちたので救出中というアナウンス。やれやれ。どうやら大事にはいたらなかったらしい。何とか10時半には家に着く。奥さんは月曜に帰ってくる。私は明日入試なので早く帰ったというわけだ。気分の悪いのは何とか治ったようだ。ただ当分本は読めそうにない。
この時期には奥さんが山小屋で野沢菜や大根を漬ける。毎年漬けている。この作業を見ているとさすがに季節を感じる。
茎漬けや菜洗う手の堂に入る
茎漬けの樽を持ちあぐ刀自の腰
言葉を途切れさせない ― 2006/11/20 00:48
今日は指定校推薦の入試日。あいにくの天気だったが、何とか無事に終わった。毎年指定校推薦日に東京女子マラソンがある。私の勤め先の校舎の脇を通る。去年は高橋尚子がトップで走っていったのを上から見ていた。今年はあいにく会議で見ることが出来なかった。今年は負けてしまったが、昨年は、どうせだめだろうと思っていた高橋尚子が、校舎の前を行きも帰りもトップで走り抜けたとき感動したのを思い出す。
首の痛みは相変わらずだ。どうも気分が悪い。入試が終わった後、元気があれば学会の大会に行くつもりでいたが、こんなんではとてもじゃないが行けない。早く帰ることにした。
帰ってから、仕事にもならず落ち着かない。姿勢を安定させて正岡子規の「竹乃里歌」を読み進む。90%以上、つまんない歌ばかりだが、明治31年になると面白い歌がで出来て、明治32年になるとやや写実風になっていく。それは短歌革新の運動を起こし始める時期と重なるが同時に重い病で苦しみ始めるのとも重なる。
それにしてもどうしてこんなにたくさん駄歌をつくるのだろうか。子規は当初短歌は俳句の延長だと思っているところがあった。俳句がまさに反射神経の表現だから、短歌も考えたり感動したりする契機があってではなく反射神経で表現しているところがある。
とにかく言葉でこの世を埋め尽くす必要があった。そんな風に表現している。実験のように言葉をはき出しては、新しい何かが生まれるのを期待していたというようにも思える。
早い時期は古今集的な歌ばかりだが、だんだんと古今集から離れていくのは、たぶん病と関係している。言葉をはき出す当事者の重力を脱しきれずに、ふと言葉が一瞬重くなる。
昔見し面影もあらず衰へて鏡の人のほろほろと泣く
明治31年のこの歌は自分の病から距離を取ろうとはしているが、どうしても重くなってしまった歌である。ほとんど古典的な和歌の写し絵のような中にこのような歌が突然現れる。
膨大なつまらない歌があってこのような歌が生まれる。つまらない歌の意味とは何か。言葉を途切れさせないテンションの持続、ということだ。子規を読んでいると、この人は言葉を一瞬でも途絶えさせたら、倒れてしまう、そういうことを感じさせる。
黙したら天地開かぬ芭蕉忌や
首の痛みは相変わらずだ。どうも気分が悪い。入試が終わった後、元気があれば学会の大会に行くつもりでいたが、こんなんではとてもじゃないが行けない。早く帰ることにした。
帰ってから、仕事にもならず落ち着かない。姿勢を安定させて正岡子規の「竹乃里歌」を読み進む。90%以上、つまんない歌ばかりだが、明治31年になると面白い歌がで出来て、明治32年になるとやや写実風になっていく。それは短歌革新の運動を起こし始める時期と重なるが同時に重い病で苦しみ始めるのとも重なる。
それにしてもどうしてこんなにたくさん駄歌をつくるのだろうか。子規は当初短歌は俳句の延長だと思っているところがあった。俳句がまさに反射神経の表現だから、短歌も考えたり感動したりする契機があってではなく反射神経で表現しているところがある。
とにかく言葉でこの世を埋め尽くす必要があった。そんな風に表現している。実験のように言葉をはき出しては、新しい何かが生まれるのを期待していたというようにも思える。
早い時期は古今集的な歌ばかりだが、だんだんと古今集から離れていくのは、たぶん病と関係している。言葉をはき出す当事者の重力を脱しきれずに、ふと言葉が一瞬重くなる。
昔見し面影もあらず衰へて鏡の人のほろほろと泣く
明治31年のこの歌は自分の病から距離を取ろうとはしているが、どうしても重くなってしまった歌である。ほとんど古典的な和歌の写し絵のような中にこのような歌が突然現れる。
膨大なつまらない歌があってこのような歌が生まれる。つまらない歌の意味とは何か。言葉を途切れさせないテンションの持続、ということだ。子規を読んでいると、この人は言葉を一瞬でも途絶えさせたら、倒れてしまう、そういうことを感じさせる。
黙したら天地開かぬ芭蕉忌や
シンプルさに出会う ― 2006/11/21 00:58
どうも首の頸椎症はなかなか治らない。原因は下を見ることが多すぎるということ。ワープロを打つ首の姿勢が最大の原因。このブログも頸椎症を引き起こす一因である。だいたいブラインドタッチで打つわけでないので、どうしてもキーボードの方をつい見てしまう。仮名入力だとなかなかブラインドタッチというわけにもいかないのだ。今更直せと言ってもなあ。別に早く打つ必要もないしこれで間に合っている。
普段から下を向いて歩く姿勢も問題だ。考え事をして歩くからどうしても下を向く。要するに、私は、胸を張って上を向いて歩く生き方をしていないということだ。いろんなものを背負っているということだ。これも今更直せと言っても無理だろう。四捨五入して六十になろうかって歳で、もっと軽く明るく生きろなんて人に言われたら、たまらんだろ。
今日は雑務をこなすためだけに学校へ行く。行けばいろいろと仕事がある。帰ると奥さんが山小屋から帰っていて、近くの「とんでん」で夕飯を食べる。向こうでは、三味線のお師匠さんが諏訪で演奏会がありその帰りにうちの山小屋に泊まっていったので(奥さんは三味線を習っているということです)、その接待やらで疲れたらしい。
グラス一杯のビールを飲んだが、帰ってから2時間は寝たまま動けず。起きて「竹乃里歌」を読み始めやっと読了。
子規の歌はやはり眼前に見えるささやかな自然を歌った病中歌がいい。他の膨大な歌は、歌をただ作るという目的だけに支えられた歌だ。歌とは本来そういうものかもしれない。眼前の風景も思いつきも時事的なこともすべて歌の題として、定型の言葉に変換される。変換の仕方はだいたいパターン化されている。あれほどパターン化された古今集的な歌いぶりを攻撃した子規ですら、ほんとに死ぬ寸前まで、パターン化した歌を歌っているのである。歌を作るとはそういうものだと思う。
ただ、その中で、ふと異質な世界が浮かび上がる。歌い手の存在や内面がかいま見えるような気のする歌だ。
上野山夕こえ来れば森暗みけだもの吠ゆるけだものゝ園
この歌などは他の歌とは異質である。こういう歌が時々出てくる。病中歌もやはり異質だ。
二荒の山のもみぢを白瓶の小瓶にさして臥しながら見る
こういう歌に惹かれる。何故かと問われるとうまく答えられないのだが、写実ということではなく、このシンプルさに、言葉を超えてしまった世界が見えるからだ。他のあまりに饒舌な言葉の森の中で、こういうシンプルさに出会うと、逆に、言葉が言葉を抑えて、意味の臨界点をすでに示しているという気にさせられるのだ。とすれば、読み手はその臨界点の向こうに歌い手の見えない心の世界に思いを馳せる。そこには、死に至る病の歌い手という、物語が待ち受けている。とすればこの歌全体が、その物語の譬喩となって、奥深い何かを伝えている気にさせられる。それはある意味でわれわれが無意識に対する時の、心の動かし方に似ているのではないかと思う。
わが宿業冬安吾して落とすべし
大根の煮物を喰ふて黄昏れる
普段から下を向いて歩く姿勢も問題だ。考え事をして歩くからどうしても下を向く。要するに、私は、胸を張って上を向いて歩く生き方をしていないということだ。いろんなものを背負っているということだ。これも今更直せと言っても無理だろう。四捨五入して六十になろうかって歳で、もっと軽く明るく生きろなんて人に言われたら、たまらんだろ。
今日は雑務をこなすためだけに学校へ行く。行けばいろいろと仕事がある。帰ると奥さんが山小屋から帰っていて、近くの「とんでん」で夕飯を食べる。向こうでは、三味線のお師匠さんが諏訪で演奏会がありその帰りにうちの山小屋に泊まっていったので(奥さんは三味線を習っているということです)、その接待やらで疲れたらしい。
グラス一杯のビールを飲んだが、帰ってから2時間は寝たまま動けず。起きて「竹乃里歌」を読み始めやっと読了。
子規の歌はやはり眼前に見えるささやかな自然を歌った病中歌がいい。他の膨大な歌は、歌をただ作るという目的だけに支えられた歌だ。歌とは本来そういうものかもしれない。眼前の風景も思いつきも時事的なこともすべて歌の題として、定型の言葉に変換される。変換の仕方はだいたいパターン化されている。あれほどパターン化された古今集的な歌いぶりを攻撃した子規ですら、ほんとに死ぬ寸前まで、パターン化した歌を歌っているのである。歌を作るとはそういうものだと思う。
ただ、その中で、ふと異質な世界が浮かび上がる。歌い手の存在や内面がかいま見えるような気のする歌だ。
上野山夕こえ来れば森暗みけだもの吠ゆるけだものゝ園
この歌などは他の歌とは異質である。こういう歌が時々出てくる。病中歌もやはり異質だ。
二荒の山のもみぢを白瓶の小瓶にさして臥しながら見る
こういう歌に惹かれる。何故かと問われるとうまく答えられないのだが、写実ということではなく、このシンプルさに、言葉を超えてしまった世界が見えるからだ。他のあまりに饒舌な言葉の森の中で、こういうシンプルさに出会うと、逆に、言葉が言葉を抑えて、意味の臨界点をすでに示しているという気にさせられるのだ。とすれば、読み手はその臨界点の向こうに歌い手の見えない心の世界に思いを馳せる。そこには、死に至る病の歌い手という、物語が待ち受けている。とすればこの歌全体が、その物語の譬喩となって、奥深い何かを伝えている気にさせられる。それはある意味でわれわれが無意識に対する時の、心の動かし方に似ているのではないかと思う。
わが宿業冬安吾して落とすべし
大根の煮物を喰ふて黄昏れる
教員を目指しますか? ― 2006/11/22 08:53
今日(21日)は朝10時半から夕方6時まで会議の連続。いつもながらだが、今日実は、非常勤講師労働組合との団交というものを経験した。むろん私は経営側。まさか経営側に坐るとは思っていなかった(ちなみに数年前私は労働組合の副委員長でした)。これも仕事だ。組合に入ってたときは組合も仕事だと真面目にやった。経営側にいるから真面目にやらないというわけにはいかない。これが社会というものだ。どっちに坐ろうと、私の属す側のためを考えて行動する。そこに権力側だとか反権力だとか変なイデオロギーは介在させない。別に政治活動をやっているわけではない。労働側も、学校側も、それなりにこの厳しい社会を乗り切るのに必死なのだ。イデオロギーで乗り切れるわけではない。
かつて某予備校にいたときに、講師たちが組合を作った。私は反対した。少なくとも私を含めて本当に生活のために予備校講師をやっているような連中にはとても思えなかったからだ。私の知る範囲の講師は普通に働くのが嫌で講師をしている者ばかりで、しかも、プロ野球選手のような個人営業主だから、所謂労働組合には相応しくないと考えたからだ。むしろ、過酷な労働を強いられている予備校の職員が組合を作るべきで、それをさしおいて、けっこういい給料をもらっている講師が組合を作るのはなんだかおかしいと考えたのだ。
非常勤講師が安い給料で働いている現状は私も非常勤歴が長いから理解できる。雇用も安定しているわけではない。何とか解決できればいいなと思う。その意味で労働組合に入ることも理解できる。が、個別の事情になると問題は複雑になる。非常勤講師をなるべく安定して雇用したいという大学側の思いが、改組やカリキュラム変更等でだめになる場合がある。今、何処の大学でも起きている問題だ。少子化で大学も生き残りをかけてカリキュラムを変更し、無駄な科目を省こうとしている。そのとき、真っ先に割を食うのは非常勤講師だ。
解決策は、結局、全国の大学の教員を任期制にして、雇用を流動化する以外にはない。専任と非常勤の雇用形態を近づけていくしか根本的な解決はないのだ。最近、東大から大学院生を非常勤として採用してほしいという手紙が来た。ところが、何処の大学でも、教員歴のない教員は採用しない傾向にある。矛盾しているのだ。まして、労働組合などが出来ると、大学側は専任校を持っている教員を非常勤に雇おうとする。非常勤だけで喰っている者の雇用はますます遠のいていく。厳しいがこれが現状である。とにかく今日本の大学全体が斜陽産業なのである。かつての銀行と同じで、かなりの大学が潰れ、合併・吸収が盛んになり、リストラもあるだろう。専任だからといって安泰ではない。
これから教員になりたいという人に言っておくが、昔の大学の先生のイメージで考えたら大間違いです。一日でも休んだら補講をしなきゃならない。雑務は多い。研究だって科研で外部から研究費をとってこなきゃ肩身が狭くなる。授業だって、予備校並みにアンケートとられて、順位をつけられる。給与だって、かつてほど高いわけじゃない。休みだって、昔のように長くはないし、研究をまともにやれば休みなんてないも同じだ。そして、何よりも職がない。
これでも大学の教員目指しますか?
教員も口角沫とばす小六月
浅漬の塩の強さに冬めきて
かつて某予備校にいたときに、講師たちが組合を作った。私は反対した。少なくとも私を含めて本当に生活のために予備校講師をやっているような連中にはとても思えなかったからだ。私の知る範囲の講師は普通に働くのが嫌で講師をしている者ばかりで、しかも、プロ野球選手のような個人営業主だから、所謂労働組合には相応しくないと考えたからだ。むしろ、過酷な労働を強いられている予備校の職員が組合を作るべきで、それをさしおいて、けっこういい給料をもらっている講師が組合を作るのはなんだかおかしいと考えたのだ。
非常勤講師が安い給料で働いている現状は私も非常勤歴が長いから理解できる。雇用も安定しているわけではない。何とか解決できればいいなと思う。その意味で労働組合に入ることも理解できる。が、個別の事情になると問題は複雑になる。非常勤講師をなるべく安定して雇用したいという大学側の思いが、改組やカリキュラム変更等でだめになる場合がある。今、何処の大学でも起きている問題だ。少子化で大学も生き残りをかけてカリキュラムを変更し、無駄な科目を省こうとしている。そのとき、真っ先に割を食うのは非常勤講師だ。
解決策は、結局、全国の大学の教員を任期制にして、雇用を流動化する以外にはない。専任と非常勤の雇用形態を近づけていくしか根本的な解決はないのだ。最近、東大から大学院生を非常勤として採用してほしいという手紙が来た。ところが、何処の大学でも、教員歴のない教員は採用しない傾向にある。矛盾しているのだ。まして、労働組合などが出来ると、大学側は専任校を持っている教員を非常勤に雇おうとする。非常勤だけで喰っている者の雇用はますます遠のいていく。厳しいがこれが現状である。とにかく今日本の大学全体が斜陽産業なのである。かつての銀行と同じで、かなりの大学が潰れ、合併・吸収が盛んになり、リストラもあるだろう。専任だからといって安泰ではない。
これから教員になりたいという人に言っておくが、昔の大学の先生のイメージで考えたら大間違いです。一日でも休んだら補講をしなきゃならない。雑務は多い。研究だって科研で外部から研究費をとってこなきゃ肩身が狭くなる。授業だって、予備校並みにアンケートとられて、順位をつけられる。給与だって、かつてほど高いわけじゃない。休みだって、昔のように長くはないし、研究をまともにやれば休みなんてないも同じだ。そして、何よりも職がない。
これでも大学の教員目指しますか?
教員も口角沫とばす小六月
浅漬の塩の強さに冬めきて
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