連休と桜と環境論2006/05/17 10:05

今年の連休は久しぶりに休暇という感じだった。最近、血圧が上がり気味で、体調に気を遣っているせいか、今年は風邪を引かずに連休に入れた。山小屋で薪割りなどをしようと計画をたてたが、友人達が今年は大勢やってきてにぎやかな連休とあいなった。5月の3、4、5日は天気もよく、春の日々を楽しんだ。山小屋には5組の夫婦が来て、10名が泊まり、私はこういう時は民宿の主人といったところである。

今年は、桜が遅くまで咲いていたこともあり、桜がきれいだった。高遠に出かけたが、城址公園の桜はもう散っていた。高遠に行く途中の山にある山桜がとてもいい。近くの村の道祖神際にある桜もなかなかよい。

ああ日本の風景だと思うが、私の行っている中国雲南省にもこういった風景はある。花も道祖神も人間の側の自然へのささやかな加工だが、そのささやかさこそが、一つの文化的風景ということか。このささやかさの意味をどう見いだすのか、最近、どうもそういうことを考えざるを得なくなった。

6日・7日は、古代文学会のシンポジウムと勉強会だ。6日は、「霊性論」がテーマで、パネリストは安藤礼二氏と津田君。安藤氏はかなり私の関心領域と重なるところの仕事をしていて、いささか驚いた。けっこう人が集まっていて、今年から始まった古代文学会の企画も結構上手くいっているという印象だ。来月は私が司会で「動植物の命と人のこころ」というテーマである。パネリストの中澤克昭氏と北條勝貴氏も来ていて、終了後打ち合わせをした。次の日は、来月のシンポジウムの勉強会。

このシンポジウムに合わせて北条勝貴氏らの編集になる「環境と心性の文化史」(勉誠社)の下巻を読んだ。難しいテーマの本だがなかなか面白かった。特に、北条氏の意気込みがよく伝わってくる。簡単に言えば人は自然に負荷を掛けなければ生きていけない、だからその自然との緊張関係そのものが、歴史や伝承に照射されているはずでそれを見いだして行こうという趣旨である。序は、こういう試みは、従来の歴史学や思想史にありがちな人間と自然といった二項対立を超えた、新しい切り口なのだと意気込む。<BR>

環境が最近学問のテーマとして脚光を浴びているが、その流れの中にあるとしても、北条氏の環境へのこだわりは、そういう流行とは一線を画したこだわりがあって、なかなか面白い。彼は人間が生きる時の根源まで環境との関わりを問うて行かなければならないと説く。そこまで行くと、環境保護といったある種のイデオロギー的な視点は背景に押しやられる。人が抱え込んだ宿命のようなものに付き当たってしまうだろう。たぶんそこまで徹底してつきつめたうえで、環境破壊の伝承のような古代の伝承記事を読み込んでいくということになる。

中澤氏は、自然への破壊に人間の快楽があることを排除するべきではないという立場だが、快楽もある意味では自然との緊張関係が生み出す人間の反応の一つだろう。北条氏は古代の伐採抵抗伝承を取り上げる。あるいは開発伝承としての風土記の「夜刀神」伝承を取り上げ、根底に伐採への抵抗を読み取る。安易に取れば、自然保護というイデオロギーを当てはめた読み込みだが、人と自然の根底の関わりの中でこういう伝承が存立する理由があるのだと、問いつめれば、北条氏のような読みもありだと思わされる。

こういうことだ、自然破壊はわれわれの特権的なテーマなのではない。人類の歴史の最初からあったテーマなのだ。ただ、最初はそれが人と神との関わりとして切り取られていたに過ぎない。そして、イデオロギーなどという効率的で暴力的な思考様式を持っていなかったから、その表象は多様だったのだ。さらに、人間というものは、自然との緊張関係の中で心を醸成させた。その心は一様ではない。たぶんそこにこの問題のやっかいさはある。

心は自然破壊に胸を痛めながら同時に破壊に喜びを感じる。こういう心の問題を一方に抱え込んで、環境破壊への危機感をテーマに託していくことになりがちなこういう問題意識の設定はなかなか困難である。それを、恐れずにやり抜く北条氏に感服すると同時に、司会としてついて行けるか、不安な気持ちにさせられた、連休の後半であった。

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